『花咲くいろは』第1話にまつわる公開質問状

id:matunamiにすすめられて、『花咲くいろは』第1話を観た。
本作の出来は、非常に良いといえる。作画・演出・脚本・企画の全てを含めて、すぐれてハイエンドな作品である。
ただし、現時点で、批評的見地からは疑問なしとしない。
ここでは、肯定派であるだろう松波さんを問答相手と仮定し、公開質問状を作成することで、私の抱いている疑問点を明らかにしたい。
公開時点では、私は第2話を視聴しているが、本稿は第1話のみに基づいて執筆されている。詳しくは、本日22時からの「もりやんと松波総一郎のWanna'be Cute!」で。
って、あと1時間ちょいだけど。

「本作は、緒花の失われた『人生』を回復する物語であるか?」

冒頭、家庭環境の描写が非常に印象的である。
緒花の一風変わった人物像は、このような家庭環境から生まれていると想像される。緒花は、肯定的な意味で、皐月を「見習って」もいる。しかし一方で、あまりに強大な「反面教師」の存在が緒花を束縛していること、皐月が緒花の日常と将来設計を破壊して恥じない、親として問題のある人物であることも間違いない。
常識的に見れば、緒花は不幸である。ここで想起されるのが『ハヤテのごとく!』である。『ハヤテ』は、明らかに、主人公・ハヤテが、両親に奪われた「人生」を、ナギの元で回復する物語だといえる。では、本作もまた、そのような物語として結実するのであろうか。

「民子というキャラクターを、いかに評価するか?」

本作のキャラクターは、個性的でありながら、その表現において一定の抑制を保っており、「アニメ的な」現実からの遊離を防いでいると考えられる
その中で、主人公であり、喜翠荘の「特異点」である緒花以上に戯画化された人物が、民子である。
「死ね!」という口癖もさることながら、板場の人間が、喜翠荘の庭先で、個人的に(?)、ノビルを育てているあたりなど、現時点での描写具合からは、ファンタジーとしか言いようがない。また、板前仕事に対する異常な入れ込みようは、何らか、トラウマの存在を想起させる。
これは、作品の「基準」を混乱させるように思われる。また、民子が象徴するテーマを、作品の軸として打ち出す意図を見出すことも、不可能ではない。というのも、民子が住み込みで働いていること、前述の板前仕事へのこだわりからは、彼女が家庭環境に問題を抱えていそうなことが透けて見えるからである。
民子は明らかに、緒花の「百合パートナー」として設定されている。物語が「緒花と民子の友情物語」として展開することには、どういった蓋然性があるだろうか。

「スイの緒花への叱責を、どのように評価するか?」

「リアルな」倫理観で判断するなら、スイの行動は、職業倫理の現れとして、肯定的な評価を与えることが可能である。
民子を叱責したことについても、緒花への指導効果を充分発揮しており、また民子の生活習慣の乱れが看過しがたいことも事実であることから、「旅館」という環境の特異性を根拠としなくとも、「従業員への指導」という観点からは肯定できる。
一方で、緒花が行動を起こすまで、民子の生活習慣の乱れが放置されていた点、緒花への業務指導が明らかに不十分である点などは、最終的にスイに責任を帰すべき事項であり、理不尽かつ無責任であるともいえる。具体的には、緒花への指導徹底を、改めて菜子に命じることが必要ではないだろうか。菜子は、半ば緒花への指導を放棄しているかにも見えるが、だとすれば責を問われて然るべきである。
なおかつ、緒花が保護者を失った未成年であることを考えれば、スイの態度が冷淡であることは否定できない。
とはいえ、かような一般的倫理判断において、スイの言動が必ずしも正当でないことは、ただちに作品評価上の問題とはならない。より重要なのは、スイが提示したような「旅館従業員としての倫理観」が、本作の物語上、どのような価値を持つのか、ということである。これはすなわち、本作を「緒花が、立派な旅館従業員に成長する物語」として解釈するのか否か、という論点に繋がる。
しかし、この論点は自明であるように思われる。緒花の「旅館従業員としての成長」は、本作の複数設定されたテーマのひとつにすぎない。なぜなら、緒花を取り巻く主要人物(皐月、孝一、民子、スイ)は皆、喜翠荘を経由しない関係性を、緒花に対して持っているからである。
かような視点を持つならば、スイの叱責(描写)への評価は、単に職業倫理的観点のみで語り得ないことは、明らかであるように思われるが、いかがか。

「本作の、『脱臼気味』の脚本をいかに評価するか?」

第1話の脚本は、複数のテーマに対し、提示の段階に留まらず、一定の「物語的問いかけ」を行っている。
以下、括弧内は緒花以外に当該テーマに関連して登場する人物である。

テーマ1
家庭環境(皐月)
テーマ2
恋愛(孝一)
テーマ3
新環境への適応(民子)
テーマ4
職業倫理(スイ)

本作においては、これら複数のテーマが、時系列的にはほぼ同時並行に進行している。一応はテーマ4が軸であるように思われるが、必ずしもその他のテーマが統合的に描かれている、ないし、そのような見通しが立つ状態にないと思われる。
true tears』と比較すれば、本作の「脱臼」ぶりは明白となる。『true tears』においては、乃絵が軸となるヒロインであること、眞一郎を巡る恋の鞘当てと、そこにオーバーラップして眞一郎の将来設計が描かれることが、第1話の時点で見て取ることができた。比べると、本作の視界は遙かに混沌としている。
本作が『true tears』のようなラヴストーリーではない以上、その物語性は、緒花の「一代記」的性格を強くするのだが、この緒花というキャラクターの語りがまた、混沌として、雲を掴むような有様である。これが、キャラクターとして魅力的であることは認めた上で、作品の構成上、ただちに問題なしとはできない。
付け加えるなら、本作に見られる、複数の倫理的問題意識は、いずれも価値中立的であり、いわゆる勧善懲悪的な、明快な倫理観を読みとることはできない。
この事実を、どのように評価するか。主人公を少女に設定した意味、民子とスイの作品構造上の関係はいかなるものか。

「緒花ちゃんにどういうスケベなことがしたいですか!?」

ええっと、もとい。フェラコラの素材めいたサービスカットをはじめ、尻もみもみや、OPでの下半身周りのだらしなさなど、緒花のセックスアピールはかなり強いものがある。
先述の通り、本作の読み筋はほぼ、「松前緒花一代記」に限定されると考えられる。ただし、それが「素人中居奮闘記」なのか、「現代版おしん」なのか、「だらしねえ下半身遍歴」なのか、判然としないし、どうとでも解釈できる。
つまるところ、最も素直に解釈すれば、「緒花ちゃんの可愛いところ見てみたい!」な作品であるとするのが、妥当ではないか。それは、なんというか、才能の不法投棄ではないのか。
つまり、緒花ちゃんにどういうスケベなことをしたいのかは、本作の読解上、最重要なポイントともいえるのではないか。つまり、みんな頑張って薄い本とか出してってこった。

大高忍『マギ』第74夜「崇高な何か」が傑作すぎる件:イノセンスと代償行為

今週の『マギ』があまりにも素晴らしかったので布教エントリをしたためんとする。単行本派は回れ右推奨。
さて、アリババが「王」になったりアラジンが覚醒したりマギバトルが始まったりカシムが異形化したりとこのところ急展開だった本作。無駄に上の方にネタバレラッシュ。終わっちゃうのかしらん、という雰囲気を漂わせつつシリーズ中でも白眉のエピソードを提示してきております。
そもそも、理由あって貧民街に生きる妾腹の王子・アリババが、人生の埋め合わせを求めるかのように、財宝眠る迷宮攻略に乗り出すのが本作のスタート地点であります。欠けたる者であるがゆえに野心を抱き、より大きな「何か」を得ようと奮闘する――本作は、「代償行為」をひとつの基盤とする、そう申し上げてよろしいでしょう。
しかしアリババは、命賭けで得た山なす財宝を、人々に分け与えて失ってしまいます。かれの真の願いは、「不公平を糺すこと」であり、財宝はその代償にすぎない。それを、アリババはアラジン(とモルジアナ)との出会いを通じて悟ったのです。
「不公平を糺す」というアリババの願いは、自らの生い立ちに強烈にモティベートされています。満ち足り、飾り立てられた王宮と、打ち捨てられ、奪い尽くされた貧民街の両方を知るアリババですが、その原風景は、かれの前半生における「はじまりとおわり」である貧民街にあります。ゆえに押しつけられた貧しさを許せず、自らが奪う側であることも許せなかった、ここにかれの「飾らない無垢な想い」=イノセンスがあります。イノセントなままでいられなかった人間が、代償行為を通じて「何か」を得ようとあがき、それを乗り越えてイノセンスを取り戻すことが、『マギ』の大きな物語的運動のひとつといえます。
また、本作は「魔法使い」に導かれた「英雄」が、試練を乗り越え「王」となる、という神話的モティーフを、設定に取り込んでいます。「王となる者」であるアリババは、迷宮攻略という最初の試練を乗り越え、王道の端緒についた後も、いくつもの試練を乗り越えなければなりません。それは、かれが自らのイノセンスに真に向き合ってゆく過程ともいえます。
最初の冒険を終えたアリババは、自らの真の願いを取り戻し、故郷を不公平から救うべく帰還を果たすのですが、ここで再会したかつての親友・カシムが、かれに更なる試練をもたらします。
アリババとともに貧民街に生き、しかしアリババと異なり根っからの貧民であるカシムは、金持ちから財宝を奪う盗賊の頭領に収まっていました。金持ちから奪い、貧民に与える、義賊的行為を完全には否定できないアリババは、カシムの誘いを断れずに盗賊に与してしまいます。しかし、これが明らかな代償行為であることは言うまでもありません。
で、いろいろあってアリババは身分制度の撤廃を宣言し、再び自らのイノセンスを取り戻したかに見えました。しかし、いろんなややこしい奴が登場し、カシムは憎しみに囚われて暴走してしまいます。ここまでが前置き。ここからが今週の話。
カシムは、なぜ「身分制度の撤廃」という答えに満足できなかったのか。それは、アリババへのコンプレックスに由来します。カシムにとって、アリババは心を許し合った親友であり、厳しい環境に立ち向かう相棒であり、傷を舐め合う同類でもあったはずでした。しかし、似たような境遇にあっても、アリババはカシムのようにただ周囲を憎むだけでなく、人を愛し、持てるものを分け与え、前向きに向上を目指す「まっとうな心根」を持ち合わせていました。そして、アリババにそれを与えた「優しい母親」は自分にはおらず、「クソみたいな父親」があったのみ。そして、アリババは王宮に拾われて去ってゆきました。同類であるはずのアリババが、自分とは決定的に「違う」人間であることに、カシムは打ちのめされます。
「自分はアリババにはなれない」という絶望が、カシムを過激な代償行為に走らせていたのです。それは、身分制度がなくなろうが、貧困がなくなろうが、変わることのない事実です。そして、血によって不公平を購おうとしていた自分に対し、誰も殺さず、誰からも奪わず、ただ権利と自由を「分け与えた」アリババの行動に、むしろカシムは、アリババとの「違い」をまざまざと見せ付けられることになり、「アリババそのもの」になりたいという叶えられることのない「願い」によって、いっそう激甚な代償行為に身を任せてしまいます。
ここに、未だアリババが目を背け続けてきたイノセンスがありました。誰もが、互いに違う個人であること。ゆえにわかりあえないこと。カシムとの関係によって烙印されたその真実が、アリババの根本であり、社会的な「不公平を糺す」ことすらも、「互いが異なる個人である」というイノセンスから逃れるための代償行為にすぎなかったということです。*1
アリババは、「互いが異なる個人である」ことを、「悲しい」と表現します。これは、決して変えられない真実であり、解決不可能な問題であり、叶えられることのない「願い」であることを受け入れた、究極的にイノセントな心的態度です。それは「悲しい」、ゆえに、せめてともに幸せに生きるにはどうすればよいのかを、アリババは考えるのです。これは、代償を求めず、イノセンスを出発点に置くがゆえに、根本的な「悲しみ」を癒す唯一の方法であるといえます。
アリババの「悲しみ」によって、カシムもまた自らのイノセンス=「悲しみ」を取り戻します。これは、互いに異なる個人同士に共感をもたらし、代償行為の無限連鎖から解放されるための唯一の手段です。
問題が解決可能である限り、建設的な行動によって個人の不幸を救済することは可能です。シンドバットは、そうした理路によってすべての個人を救済しようとしたといえるでしょう。しかし、問題が解決不可能である場合、そこから逃れようとする運動は代償行為にしかならず、救済から遠ざかるばかりです。叶えられない「願い」を抱き続けるのではなく、ただ「悲しみ」を悲しむことだけが、個人のイノセンスを救済することにつながるのです。
設定面から見ると、王の資格者はマギに「ジンの金属器」を与えられ、「ルフ」より生じる「魔力(マゴイ)」をあやつるわけですが、これを必要としない者こそが真に「王となる者」であるといえそうです。
「ジンの金属器」は「願い」を叶える「アラジンのランプ」を原型としており、人の魂やイノセントな精神と同一視される「ルフ」を、物理的な効力を持つ「魔力(マゴイ)」に変換します。「マギ」のもちいる魔法も同様ですが、これは代償行為の象徴といえます。
代償を求める欠落こそが王の資格者のモティベーションであり、アリババの試練もまた代償行為から出発しています。そして、代償=財宝=「ジンの金属器」=「魔力(マゴイ)」なくして試練を乗り越え、実際的な達成を得ることはできなかったのですが、そこに囚われ続ける限り「悲しみ」と向き合うことはできません。「互いに異なる個人である」というアリババの「悲しみ」は、個人と個人の調停者である(象徴的な)「王」たる、正しい資質といえます。
ちなみに、女性に対しておっぱいしか求めていないアラジンと、強烈な自我(と筋肉)を持つモルジアナに微妙にフラグを立てているアリババの性癖の違いは、こうした精神性を根拠とすると考えられます。「マギ」であるアラジンが見据えているのは「ルフ」の流れであり、世界全体の大きな運動なのですが、「王となる者」であるアリババは個人の「悲しみ」を出発点としており、個の総体として世界を捉えているからです。アリババにとって貧民は「カシムたち」であり、奴隷は「モルジアナたち」ですが、アラジンにとってはみんなまとめて「人間」です。
アリババにとってアラジンは、カシムやモルジアナ以上に「互いに異なる」だけの「個人」にとどまるのか、それとももはや個人としての関係を築き得ない象徴的存在になってしまうのか、二人の友情の行方も注目されます。また、「マギ」として覚醒してしまったアラジンは、ジュダルや悪しき魔力(マゴイ)の使い手たちを、同じにして相違なる「人間」として捉えることができるのか、この点が『マギ』の文学的評価を左右しそうです。

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

マギ 3 (少年サンデーコミックス)

マギ 3 (少年サンデーコミックス)

マギ 4 (少年サンデーコミックス)

マギ 4 (少年サンデーコミックス)

マギ 5 (少年サンデーコミックス)

マギ 5 (少年サンデーコミックス)

マギ 6 (少年サンデーコミックス)

マギ 6 (少年サンデーコミックス)

*1:アラビアンナイト』をモティーフに取っているわりには、恐ろしく近代的な問題意識ですが。

俺が書こうとしているのはジョナサンとDIO子のラヴストーリーであるらしい。

DIOはジョナサンにとっての「運命」であり「試練」である。DIOは常にジョナサンを試す。ジョナサンは、DIOという「運命」がもたらす「試練」を乗り越えることによって成長してゆく。ある意味では、DIOはジョナサンのために存在している。
逆に、ジョナサンもDIOのために存在している。ジョナサンは「人間」DIOの唯一の理解者であり、道を踏み外したDIOを止めるために生きた。しかし、DIOを成長させる人物は、『ジョジョの奇妙な冒険』には存在しない。
DIOがジョナサンを憎みつつも、一面では惹かれていたことは明らかだ。極端なことを言えば、DIOは自分の生まれ持った悪性を剥き出すことによって、「それでも自分の友でいられるか」をジョナサンに問うていたといえる。
確かに、ジョナサンはDIOの友であり続けた。ところが、ジョナサンはDIOに惹かれていない――DIOがそれに値する人物ではないので、「自分の友でいられるか」をDIOに問うことはない。ジョナサンはDIOの執着に付き合ってやってるにすぎない。だから、DIOは成長することができない。
袋小路だし、そもそも「人間」DIOは石仮面を被った時点で死んでいる。吸血鬼DIOは、「人間」DIOの死後に残った残滓にすぎない。だから、DIOの根源である「欠落を埋めたい衝動」が欠けている。
DIO、かわいそす。ジョナサンはリア充すぎる! 爆発しろ!
DIOは救われていない。悪だから救われないのは当然という見方もあるが、事実として救われていない。そして、DIOの人格が全く救われざるべきものとも描かれていない。それは、ツェペリとスピードワゴンの描かれ方に見て取れる。
ジョナサンと(生前の)DIOは、人間の両極端といってよい対照的なキャラクターだが、その中間にはツェペリとスピードワゴンが位置している。ツェペリは、目的のために大切なものを捨てた人物だ。DIOと同じく家族を捨て、最後には命も捨てた。深仙脈疾走と石仮面は、そういう意味で同じものだ。
スピードワゴンは、人生に欠落を抱え、よって悪として生き、そしてジョナサンに出会った人物だ。スピードワゴンは、ジョナサンにはなれないことを受け入れ、ジョナサンを支えることに目的を見出した。そして、他人から奪うことなく、砂漠から石油を掘り出すことで人生の埋め合わせを手に入れた。
ツェペリもスピードワゴンも、ジョースターの血族に救われている。ウィルが捨てた家族(隣人)愛は、シーザーからジョセフへと受け継がれた。スピードワゴンと彼が残した財団は、ジョースターの友として認められ、永くこれを支え続けた。彼らの人生の意味は、ジョースターに救われた。
しかし、DIOの欠落を埋め合わせる衝動や、目的のために全てを捨てた悲劇は、誰にも救われていない。ジョルノはどうなんだって話だが、彼は悪を身に付けたジョースターで、欠落を抱いていないし、目的のために何も捨てなかった。プッチなんか、「人間」DIOの何を知ってるでもない。
ディエゴ・ブランドーは、ジョニィと友情を結ぶことも、欠落を埋め合わせることもなく、惨めに死んでしまった。誰も彼を試さなかったからだ。誰も彼を成長させなかったからだ。「遺体」すら、彼に試練を与えてやりはしなかった。神、ひでー。
DIOが、ジョナサンの「運命の相手」たりうるかを試され、ジョナサンに相応しいことを証明して彼を得る。ぼくが書こうとしているのは、どうやらそんな話です。

『僕は友達が少ない』にはヒル魔が足りない

タイトルは『ぼくたちには野菜が足りない』パロになってしまった。
相変わらず続きを読まないまま自分のはがない感想を読み返して、はがないに何が足りないかわかった気がした。ヒル魔だ。
物語には、特定の「人格パターン」をテーマとして展開する類型がある。こういった物語は「成長物語」とか呼ばれることも多い。例えば『魁!!男塾』。この物語においては、「男」という人格パターン、ないし人間のあり方、あるいは生き方がテーマとなっている。
そして、片側には、「男」という様式を体現する人物たちがいる。剣桃太郎江田島平八は、彼ら自身が「男」の象徴であり、物語のテーマであり、作品の理想でもある。『男塾』における「男」とは、剣桃太郎江田島平八のような人格を指す。
一方で、極小路秀麻呂、あるいは男爵ディーノのような人物は、「男」と同一視されることはない。ある基準においては、剣らと正反対のキャラクターですらある。しかし、彼らは「男」へと成長し、あるいは彼らの中に「男」性が発見される。
いわば、剣桃太郎が「男」のなんたるかを「説明」するキャラクターであるのに対し、極小路秀麻呂は自らが男たることを「証明」するキャラクターといえる。

フラットキャラクターというのは、おとぎ話から、子供番組、水戸黄門のような作品にまで登場する作中人物の造形のレベルのこと。
ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ フラットキャラクターは初期配置が大事

フラットキャラクターである剣、複雑な内面を持つ極小路、と乱雑にまとめることもできなくはない。こうした作品は、フラットキャラクターの明快な説得力と、複雑な内面を持つキャラクターの芳醇なストーリー性とを合わせ、作品に深みを持たせることに成功している。
同様の運用は『ダイの大冒険』にも見られる。もちろん、剣=ダイ、極小路=ポップである。そして、物語のテーマとなる人格パターン……「男」や「勇者」たることを「証明」し「発見」されるキャラクターのほうが、真の主人公と呼ばれたりする。
さらにいえば、フラットキャラクターが複雑な内面を顕にし、複雑な内面を持つキャラクターがフラットな価値観を見にまとうことによって、こうした作品は物語により以上の深みを持たせることができる。その好例が『アイシールド21』といえる。
物語のテーマとなる人格パターンは「アメリカンフットボールプレイヤー」、その象徴はヒル魔、そこに近付こうと葛藤する主人公がセナである。物語の流れは、当初セナが「ヒル魔性」を学び、身に付け、自らの裡にある「ヒル魔性」を発見することで進行する。
しかし、物語の中盤以降、成長したセナは「アメリカンフットボールプレイヤー」としての象徴に成り上がり、ヒル魔は秘めた「人間性」を暴露されてゆく。そして彼らが再び「雄/アメフトをする人間」という地点で交わるのが素晴らしいのだが、ここでは詳しく論じない。
こうした、特定の人格パターンをテーマとする物語においては、ニュートラルな立ち位置からパターン性を習得する/発見されるキャラクターが「主人公」となり、はじめからパターン性を身に付けたキャラクターがテーマの象徴や、成長の基準、主人公にとってのメンターとして機能する。
ちなみに、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』でヒル魔の役割を担ったのは、沙織・バジーナだろう。
沙織は、「オタク」という人格パターンの、悪い面も良い面も象徴している。京介は沙織を見てオタクを学び、沙織に導かれてオタクとして成長する。(桐乃は、京介に試練を課しはするものの、成長の手助けをすることはない。)
沙織の例を見てもわかる通り、『アイシールド21』でいうヒル魔は、文化系部活モノでいうと「部長」のポジションである。(というか、まあ、ヒル魔は部長みたいなもんだが。しかしスポーツ系部活モノの「部長」という類型はヒル魔とはちょっと違う)
で、『ラノベ部』を見ると、『男塾』や『アイシールド21』ほど明確ではないものの、文香・暦が主人公、その他の部員が概ねメンターとして機能している。ラノベ部の部員たちは、まあ、本読みの達人だといってよい。そういう意味では、『史上最強の弟子ケンイチ』みたいな作品である。
ここで重要なのは、龍之介がメンター側のキャラクターであることだろうか。彼は悩みもがきつつも、自らや文香が直面する問題に(暫定的ながら)回答を出すことができる人物である。龍之介のメンターとしての機能は、例の「儚くも永久のカナシ」で表現されている。
ところが、『はがない』だと、小鷹・夜空・星奈というメイン級キャラクターの全員が、「残念」性の象徴として機能しない人物である。と、言い切るとたぶん異論が出てくるが、ぼくはそう感じたし、そう感じたから特に1巻に疑義を呈するわけだったり。
まず、小鷹がそれほど「残念」でないことは論をまたない。彼に「友達が少ない」のは全く周囲の無理解の結果であって、自身の人格はむしろ真っ当な好青年だといえる。では、ヒロインはどうか。特に事実として「部長」である夜空は。
夜空は、友達を欲しているようでありながら、小鷹との恋愛のみに目的意識を向けているようにも見える。また、星奈との関係が、あまりに簡単に友達になりおおせている。人格が複雑すぎ、その裡に「残念」性を「発見」する必要がある、葛藤する主人公系キャラクターといえる。
星奈も、表面的にはリア充に見えて、内実が「残念」というキャラクターであり、「残念」性の象徴としては機能しない。幸村もわかりやすく「残念」な人物ではないし、隣人部の主要メンバーとは言いがたい。
純度100%「残念」な理科が登場する2巻まで、『はがない』のテーマ性を象徴するキャラクターが存在していない。作品が提示する「残念」像が不明であり、従って「主人公」たちに「残念」性を「発見」するシークェンスも駆動しない。
例えば、プラナリアの交尾に興奮するような明らかな「残念」性を持つ理科が示す好意を、全く気付かずにスルーする小鷹に、理科と同様の「残念」=「友達が少ない」=非コミュ性を見出すようなメカニズムは、1巻時点では全く機能していない。理科のポジションから言って、範囲も限定的になる。
3巻以降は読んでいないのだが、『はがない』の物語性は理科抜きに駆動できないのではないか。そして、理科が理科であるゆえに、小鷹・夜空・星奈の物語は、不器用なラヴストーリー以外のなにものかには成り得ないのではないか。
いくらなんでも、理科に与えられた権能で、ヒル魔や沙織の役割を果たすのは無理がある。理科って、隣人部員でない、局外的なポジションのほうがよかったような気も……。
全身これアメフトなアメフト協会会長がデビルバッツのヒラ部員だったら、バランスもへったくれもない、みたいな感じだ。構造的理科無双。それはそれで俺得なような気もするが。

僕は友達が少ない (MF文庫J)

僕は友達が少ない (MF文庫J)

僕は友達が少ない 2 (MF文庫J)

僕は友達が少ない 2 (MF文庫J)

ここまでしか読んでない。

声に出して読みたいアイマスソング「shiny smile」を再評価してみよう

このところ、supercell飛蘭曲のカッ飛んだリリックを見るにつけ、「センス」とか「題材」以前の「スキル」としての作詞について検討したいと思っていたのだ。例えば大半がアレなアイマス曲リリックの中で「shiny smile」が光る理由とか。
「shiny smile」は、女の子の心情を歌った曲でありながら女の子女の子した単語が「リボン」くらいしかなく一般化してるところとか、前向きさを感じさせる単語選びもいいのだが、技術的に優れているのはイメージの飛躍だろう。
疾走感溢れる曲調に合わせて、フレーズ移行で小飛躍→セクション移行で大飛躍を繰り返し、リリックにも推進力を与えることに成功している。具体的に検討してみよう。
歌詞引用しまくるけどバンナム許してくれ!

お気に入りのリボン うまく結べなくて
何度も解いてやり直し

冒頭は、女の子らしい日常性に溢れた情景。ここでは非常に親密な距離感なのだが、次でイキナリ距離感が飛躍する。

夢ににてるよ 簡単じゃないんだ

ただしこの時点ではリスナーの距離はシンガーに近い。

妥協しない 追求したい
頑張るコト探して ねぇ 走るよ

Bメロ移行に伴い、再び女の子にフォーカスするが、Aメロの最初のフレーズと違って焦点は心情にある。また、立ち止まっていた女の子の心情を「前」に向けてサビを準備している。

君まで届きたい 裸足のままで
坂道続いても諦めたりしない
手に入れたいものを数え上げて
いつだってピカピカでいたい
私 shiny smile

サビで女の子の心情は一気に走り出す。メロとのスピード差による牽引感が心地良い。また、ここでは脚で走っていることに注意。

朝起きて寝るまで 宝箱を開けることの
「ホント!?」繰り返し
驚くばかり 平凡じゃないんだ

Aメロ2。抽象度が上がっており、前後半でギャップを生じにくい。また、1番で心情を前向きに切り替えたことで、日常が喜びに満ちたものに変わっている、というストーリーも見える。
一度上げたスピード感をあまり落とさず走りぬけようという意図が見て取れる。

制御効かない 冒険したい
傷つくコト避けたら ねぇ ダメだよ

Bメロ1は停滞から躍動への転換だったのが、Bメロでは躍動からのさらなる躍動を表現しようとしており、全体を通じた加速感が維持されていることに注意。

君へと届きたい!転びそうでも
ブレーキを我慢して石ころをかわして

全くワードとしては登場しないが、自転車で走る情景を表現している。サビ1の徒歩から自転車に変わったことで加速感を維持。また、サビ1で上りだった道が平坦/下りになっており、やはり上がったスピードを維持している。
さらには、サビ1に比べてイメージの具体度が上がっており、心情だけが先走っていた状態から、肉体が伴ってきていること、走る生き方を実践することで感じているスリルを表現しており、シンプルなフレーズながらストーリー性が高い。

泣きそうな思いを乗り越えたら

で希望に伴う痛み、

いつだってキラキラでいたい
私 shiny smile ずっと

繰り返しのフレーズに付け加えられた「ずっと」だけで、来たし方と行く先を繋げている。直前の「泣きそうな思い」が利いている。

君まで届きたい 裸足のままで
坂道続いても諦めたりしない
手に入れたいものを数え上げて
いつだってピカピカでいたい

大サビ前の小休止パート。サビ1のフレーズを繰り返すことで、走り続ける動機を確認している。溢れ出す思いが追加ワード「私」にガッツリ乗ってくる。

君へと届きたい!転びそうでも
ブレーキを我慢して石ころをかわして
泣きそうな思いを乗り越えたら
いつだってキラキラでいるよ
私 君と

大サビはサビ2の繰り返しフレーズで、全体の加速感をリピート。追加ワード「君と」で目標としていたカレに追いつけたことを表現している。

shiny smile shiny smile ふたり ずっと…

アウトロ。カレに追いつくための笑顔が恋人同士の笑顔になり、曲調と共に加速から巡航へ移行。痛みが癒されて永遠の愛を予感させて終わり、と。なんつーいい歌だ!
内容的には完全なる春香曲なんだけど、千早・律子入りのMASTER VERSIONのほうが共感の輪が広がる感じで素敵ですネ。
全体的に、イメージの飛躍を繰り返しつつ、直前のフレーズで次の飛躍を準備している段取りの良さが際立つ。リスナーを引っ張りまわしながらも、大サビでキッチリ復習させる詰めの正確さもポイント高い。
Bメロの"制御効かない"、サビ2の"ブレーキを我慢して石ころをかわして""泣きそうな思いを乗り越えたら"、大サビ前の"私"あたりが個人的ゾクゾクポイント。

装甲悪鬼でのパフォーマンスにも感嘆したけど、現在のなまにっくぁん(ウロブっつぁんに準ずる愛称)は参加したら「なまにく作品」と呼びうるような華があるよな。
でも、チャイカのデザインは、明らかにニトロじゃなくライアーのラインですよね。

棺姫のチャイカI (富士見ファンタジア文庫)

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