webの卑俗なクリエイター

鳩山首相がblogとTwitterを始めたそうな。以前は偽物もあったが今回はマジらしい。
もちろん国家主席Twitter利用といえばオバマ大統領の前例がある。本人がpostしたことは一度もなかったらしいが、鳩山首相はご自分で文面を作成しているらしい。また、小泉元首相がメールマガジンを配信していたことはよく知られている。自分も購読していた。
鳩山由紀夫(hatoyamayukio) on twitter
威厳もクソもあったもんじゃない。
それが悪いと言いたいわけではないし、政治家の話が本題でもない。ともあれ、webにおける活動は「俗」である。購読者数やアクセス数やfollowingがいかに多かろうが、それはフラット化され特権性を失う。バズワードくさいが真実だ。
身分制度の廃止は、奴隷の消滅と同時に貴族の消滅をも意味する。それは、「聖」と「俗」の関係で言えば、世の中全体を「俗」の側に遷移させる。いかに一国の首長であれ、改変RTされたりふぁぼったーに載ったりする点においては、ただの1ユーザにすぎない。
Twitterでは有名人と気さくに接しやすいといわれる。これは、webの基本的な性質であり、Twitterは現時点での先端であるにすぎない。おそらく今後はもっと「俗」なwebサービスが登場するだろうし、有名人の聖性は失われてゆくだろう。
これは、従来の社会において元々有名であった人の問題であるだけではない。これから有名になる人にとっても同様の傾向が発生するだろう。
例えばsupercellだ。彼らはニコニコ動画で名声を獲得し、それが商業デビューに結びついた。ニコ動での活動が事前プロモーションであったとしたらもっとおもしろい話なのだが、まあ、陰謀論だろう。そして、彼らには今後も「『メルト』のsupercell」というレッテルがつきまとう。
いつかはニコ動発のアイドルも誕生するだろう。リアル水谷絵里である。アイドルの「俗」化、民主化は、ハロープロジェクトの存在が示すようにweb以前からの現象だが、webはそれを加速させるはずだ。
遡れば、有名人のblogが炎上した事件は枚挙に暇がない。これはwebでは自身の社会的価値が(実社会ほどには)尊重されない、ということを知らなかったがゆえに発生した事故といえよう。すでに有名である者も、これから有名になろうとする者も、web時代に適応した振る舞いを身につけなければならない。それは、自身の獲得した/獲得する社会的価値を守るためでもあり、あるいは社会的価値を獲得する段階で必要になるかもしれない。
ところで、ここでいう「聖」とは何によって担保されるのだろうか。それはお金である。ほとんどの場合はそうだ。現代日本における有名人は、なにがしかのプロフェッショナルであるか、マスメディアというビジネスにおいて商材として取り上げられた人物である。従って、論をクリエイターに適用するならば、プロフェッショナルがアマチュアと同じように扱われるのがwebである、ということになる。
プロとアマのクリエイターが同じように扱われるのであれば、商業作品とそうでない作品も似た内容になるのだろうか。webで発表された作品が(内容をほとんど改変せず)商業化される例はすでにある。最近では『ソード・アート・オンライン』がそうだ。
では、こうした例は、商業作品にそれらしい「格調」が必要なくなったことを意味するのだろうか。必ずしもそうとはいえない。むしろ、プロらしいウェルメイドな作品が、商業作品として発表される前に通過する場所としてwebが出現した、というほうが正しい。川原礫氏のサイトで発表されているように、『ソード・アート・オンライン』はそもそも電撃文庫新人賞への投稿作である。
すでにプロである作家が、商業作品らしい「格調」のない作品を発表することもある。『ばけらの!』などだ。しかし、この作品が杉井光氏のプロ作家としての認知なしに成立すると考えるのは難しいだろう。そもそも『ばけらの!』の魅力の少なくとも一部は、「聖」なる商業作家たちの生活を赤裸々に晒した点にある。
web小説と商業小説を比較すれば、無料で読めるweb小説と内容的に変わらない作品を、わざわざお金を払って買う理由はない。お金を払ってもらうには、当然それに見合った理由が必要となる。問題は、その理由がいつまでも以前と同じままあり続けるのかということだ。
webで発表された作品を商業化する場合、多くはデータがwebから削除されることになる。あるいは、「続きは紙で」だったり、本でだけイラストがついたりする。
では、web上に無料で完全なコンテンツが存在する場合、それは商業作品の売り上げに致命的なダメージをもたらすだろうか。
これは「p2pがコンテンツビジネスを崩壊させる」論と近接する。当然、ユーザが「無料で利用できるならわざわざお金は払わない」という行動を取ることはある。しかし、無料コンテンツで満足するユーザが大勢を占めたとしたらどうだろうか。そして、エロゲーユーザによくある「お布施」のように、お金を払うことがコンテンツの対価ではなく、応援の意味をも持つことをどう考えるのか。
コンテンツ提供の対価によってクリエイターが生活するという構造がすぐ崩壊することはないだろう。しかし、対価ではなく応援によって生活するクリエイターが現れることは近い将来にあるかもしれない。そうしたビジネスの実験として、p2pで提供され任意に代金を支払う同人ゲームがあったのだが、タイトルなどは忘れた。これを書いている時点でネット環境がケータイしかないため、後で調べて追記することにする。
さて、とりあえずクリエイターは従来通りの流通によって対価を得るとする。そこにおいて発表される作品の、対価を得るべき理由に、なにか新しいものが見いだしうるだろうか。
興味深い例としては中里十氏がいる。氏はデビュー以前からwebを中心とした百合評論で知られる人物であり、商業活動においては百合小説を発表している。彼の商業作品のユーザには、web評論に対する応援、ないしその実際の運用に対する興味という購入動機が想定できる。すなわち、小説家中里十ではなく、web評論家中里一の消費である。
実作を行う評論家、という存在は最近になって現れたものではない。昨年末に小説『クォンタム・ファミリーズ』を上梓した東浩紀氏もその一人である。ある種の評論は、作品から聖性を剥奪し俗化するものといえるが、だとすれば東氏の小説はあらかじめ俗化されたものなのかもしれない。
まとめる。「俗」な創作とは、特定の思想や利益、共同体を代表することによって対価を得るものではなかろうか。近年流行のオタクキャラは、まさにオタクの代表としてオタクから支持される存在にほかならない。
「俗」なる創作がビジネスになるとして、デビューにたどり着かないことにはそもそも本を出せない。webでよほど有名になれば出版社からお声がかかるかもしれないが、そうでなければまっとうに新人賞を穫らなければならない。
そのために出来の良いものを書け、というのでは正論すぎて面白くも何ともない。では、「俗」なるものから武器を得るにはなにが必要だろうか。
中里十氏は、(男性の)百合ファン、という層を発掘したことがデビューに結びついたという見方が可能だろう。商業的にターゲットと見なされていなかったトライブを代表する作品を提示してみせる、というのは方法論としてありうるかもしれない。それは、ケータイ小説の成功法則であり、反面では作者のオナニー――商業作品におけるタヴーでもある。オナニーがお金になるかどうかは、未知のトライブを発見できるかどうかにかかっているだろう。