Nitro+作品の特徴は「祝祭」

プレイ済の作品は『Phantom of Inferno』『斬魔大聖デモンベイン』『スマガ』『装甲悪鬼村正』のみ。で、ニトロプラスとはなんぞやと考えていたら、タイトルが思い浮かんだ。以下、敬称略。
さて、ニトロプラスデビュー作である『ファントム』の特異性とは何か。ニトロの「銃と硝煙」イメージを決定付けた本作だが、「銃と硝煙」の出るエロゲーとしては『EVE』シリーズがすでにあった。女の子のケツを追っかけるだけではないエロゲは別にニトロが始めたものではない。ニトロと虚淵玄がやったのは、「シナリオゲー」という汎用フォーマットの上にジャンルフィクションを乗っける、ということだ。
『EVE』シリーズは推理ゲームである。推理というゲーム性があり、そこから「探偵小説」という物語ジャンル性が導き出されている。それに対して、『ファントム』はほぼ攻略性のないシナリオゲームであり、ゲームの傾向とは全く関係なくフィルムノワールのジャンルフィクション性が導入されている。
いうまでもなく、『ファントム』を系譜的に遡れば葉鍵に行き着く。葉鍵が萌えるヒロインとそれに依拠した感動的ストーリー、という女々しい魅力を押し出していたところに、同様のフォーマットに基づき、かつ全く異なる物語性を提示したゆえに『ファントム』は驚きをもって迎えられたのだ。
葉鍵の特徴として、日常描写の高いウェイトが挙げられる。Leaf Visual Novel三部作にしても『ONE』『Kanon』『AIR』にしても、ともすれば退屈な日常シーンに膨大な尺が割かれており、これは以後のシナリオゲーム史においても基本的なフォーマットとなる。こうしたスタイルが発生する理由についてはいくつか挙げられるがここでは詳説しない。ともあれシナリオゲームというフォーマット自体が日常への偏重を生み出す。
「銃と硝煙」に代表されるニトロのジャンルフィクション的物語は、エロゲー以外の正統的エンターテインメントで育まれたものであり、かつ、基本的にゲームシステムに対して親和するように構築されていない。従って、それはハリウッド的エンターテインメントが本来あるように、純粋に「非日常」的空間を現出させるものとして機能する。
しかしながら、シナリオゲーは文化的にも構造的にも「日常」を志向する。それゆえ、ニトロ作品は全体が「非日常」でありながら、あらかじめ「日常」から異化されたもの、「日常」から「非日常」へ一段階の遷移を経たものとして認識される。
このギャップがニトロ作品が発する吸引力の源泉であり、ニトロにおける基準である虚淵シナリオ初期三部作においては、「日常を剥奪された主人公」が常に提示される。『デモンベイン*1沙耶の唄』に至れば、「日常」が実はすでに異界であった、という転倒すら起こるのだ。
「日常」から異化された時間・空間、とはまさに「祝祭」である。そして、「祭り」を扱ったエロゲーといえば『Fate/stay night』である。言うまでもなく聖杯戦争は「祝祭」なのだが、『Fate』を含む他社作品において、「祝祭」は概ね「日常」とセットで提示され、両者を往還しつつ物語が進行する。対してニトロでは、日常シーンへの執着をほとんど示されず、メインストーリー中では日常への帰還が許されない。なんとなれば、ニトロの「祝祭」は主人公への束縛だからである。
「祝祭」が主人公にとって常に呪いであるところに虚淵の倒錯があるのだが、『デモンベイン』において鋼屋ジンは「呪われていると同時に祝福されている」という形で、虚淵的なるものを正統的な「祝祭」に接続している。それは燃えと萌えの融合――ジャンルフィクション性とエロゲー的シナリオ技法の両立とも無関係ではない。ナイアルラトホテップアル・アジフ、二人の女がその二面性を分かちあっている。
そして、「祝祭」がそれとして成立するためには祭られる「神」が必要である。わかりやすいところでいうと、『ヴェドゴニア』リァノーン、『鬼哭街孔瑞麗、『デモンベインデモンベイン、『沙耶の唄』沙耶、『スマガ』川嶋有里などだ。「祝祭」における「神」の存在を仮定してみれば、それに対応する「贄」が用意されていることもわかるだろう。例えば、川嶋有里には88人の魔女が捧げられている。
このように、ニトロ作品(のシナリオ)は「日常」から異化された「いま、ここ」である「祝祭」、例外状態をもたらす「神」、犠牲となる「贄」によって特徴づけられる。逆に言えば、ニトロ作品を特徴づける一番根本的な要素は、「日常」の欠如である。

ニトロプラスに未来はありや

こうしてまとめれば、ニトロの方法論というのは基本的に逆張りだということがわかる。妥当な表現をあえて避けて驚きを求める……というと単なるキワモノ主義みたいだがだいたいそんなモンである。といっても、単に表面をキワモノっぽく取り繕ってるだけのヌルいキワモノとはレベルが違うが。
それは、常に目先を変えていかないとすぐ飽きられることを意味する。もっと言えば、それを続けている限りいつまでもマイナーメジャーの地位から抜け出せないことも。
それも別にブランド戦略として間違っているわけでもない。しかし、作品を一段上のレベルに乗せるには、シナリオゲームというシステムと作風の関係、「日常」と「祝祭」の関係に対する問い直しが必要に思う。

*1:九郎らが日々を過ごすアーカムシティ自体が、騒乱の都市であり、ブラックロッジの脅威に晒されており、戦うために造り上げられている