ギャルゲーとの違いから考えるエロゲーの「日常」

なぜラブプラスの日常は楽しいのに、エロゲーの日常はクソつまらないのか、と読み替えると有意な問題設定ができそう。
エロゲーはエロシーンオリエンテッドである以上いかに日常を描き込もうとそれは快楽のサスペンドにしかならず、CSギャルゲー的な日常の快楽には近付けど到達し得ない。従ってエロゲーの日常描写はアニメに範を取っていくのだった。という説はどうか。
シナリオをサブエピソードに分割し、各エピソードにオールキャラによるスラップスティックコメディと、ミニクライマックスとしてのエロシーンを配する、という手法は『斬魔大聖デモンベイン』で導入され、『ティンクルくるせいだーず』などに引き継がれている。
しかし、日常シーンを全部飛ばすプレイヤーがいる一方で、エロシーンを全部飛ばすプレイヤーも少なくないという矛盾。
達成に伴う報奨ではなく漸進的攻略過程に快楽を見出すのがCSギャルゲー的日常観念なのであって、日常は「何事もなく繰り返される」ではなく常に微量の変化を孕んで進行しなければならない、というのが片岡ともが示した「ふつうのギャルゲー」であるわけですが。
エロゲーが女の子オリエンテッドだという謂は明らかに正しいが、女の子の価値が実際どこに見出されるのか、というのは歴史上一定ではない。80年代エロゲにおいて女の子はヤらせてくれるから魅力的だったわけで
90年代にCSギャルゲーが勃興するとヤらせてくれなくても十分魅力的な女の子というのが志向されてくる。それはグラフィック・ストーリー両面から女の子の描き込みを増やすことで達成されていった。

しかし間もなく、この事態が凡庸化し制度として流通し始めた時、その制度を独自に読み破った『ONE』は、「日常」を描き込むギャルゲーの形式自体を突き抜けるという道を提示した。
アシュタサポテ :: 過去の日記 :: 2000-04

と。そこで発生したKeyにエロシーンは不要なのか論争を我々は忘却してはならない。要るよ、というのがまあ、一般的に受け入れられている結論だと思うが
なぜならば、Keyの日常とはエロシーンがもたらす物語性の決定的変異を前提としたものであったからだ。文学的に言うと日常の永続を願うモラトリアム的心性。
そうした心性を基盤とした『ToHeart』において、志保シナリオがもたらしたトラウマはそりゃあ大きなものにならざるを得ないだろう。おっと、私怨。
ともあれ、2000年代=ポスト葉鍵ジェネレーションにおいては、(エロシーン以前の)日常そのものを積極的に価値付けようとする運動が発生することになる。ひとつの方向性は男性キャラを重用しスラップスティックを志向した『グリーングリーン』であり、今ひとつが『はじめてのおるすばん』であった。
エロゲーにおける日常とはなにか、というと、一義的にはヒロイン攻略(=選択)過程であるので、はじるす的な、あるいは片岡とも的な日常というのは、何かのプロセスでない時点で自ずから限界を孕むものではあった。
そこで、エロい日常の描き手、すなわち萌えとエロの融合の達成者としてRUNEとTeliosというふたつのメーカーに注目せねばならない。
RUNEは特定の少女を開発するプロセスを描いた調教ゲーとして、Teliosはセクハラを通じてヒロインとの絆を構築する恋愛ゲーとして、それぞれに萌えとエロの融合を成し遂げたと評価できる。
でも作るのが大変だったので流行らなかった。そんでどっちも倒れた。
んでまあ、はじるすにしてもグリグリにしても後世への影響が大きいのだが、いずれ快楽をサスペンドしない、最初からクライマックスな作品なので、葉鍵とは違う意味で――抜けるけどエロシーンどうでもいいという事態が発生してくる。
そこで現状の回答としてはアニメ風サブエピソード演出なんじゃないっすかね? という話に戻ってくると。嫌いだけど。
ちなみに、ヒロイン選択シークェンスにエロシーンを差し込むはじるす的手法を、「へっこくらべ」としてストーリーに落とし込んだのが『碧ヶ淵』。*1
日常と非日常を対立させつつも同時進行させる、という『Fate/stay night』がポスト葉鍵世代の最終的な結論だった、ということは覚えておきたい。
Fate』では、ヒロインの抱える問題が主人公との日常によってサスペンドされる一方、主人公は自らの運命へと接近していく。
このへん『ef』とかでどういう処理がなされているのか、アニメ版一期しか知らないから判じかねるのだが。
やはり、ハーレムな日常と記憶喪失という非日常が同時進行する、『Sugar+Spice!』の目の付けどころがシャープだな。

*1:トマトおいしいです^q^