俺が書こうとしているのはジョナサンとDIO子のラヴストーリーであるらしい。

DIOはジョナサンにとっての「運命」であり「試練」である。DIOは常にジョナサンを試す。ジョナサンは、DIOという「運命」がもたらす「試練」を乗り越えることによって成長してゆく。ある意味では、DIOはジョナサンのために存在している。
逆に、ジョナサンもDIOのために存在している。ジョナサンは「人間」DIOの唯一の理解者であり、道を踏み外したDIOを止めるために生きた。しかし、DIOを成長させる人物は、『ジョジョの奇妙な冒険』には存在しない。
DIOがジョナサンを憎みつつも、一面では惹かれていたことは明らかだ。極端なことを言えば、DIOは自分の生まれ持った悪性を剥き出すことによって、「それでも自分の友でいられるか」をジョナサンに問うていたといえる。
確かに、ジョナサンはDIOの友であり続けた。ところが、ジョナサンはDIOに惹かれていない――DIOがそれに値する人物ではないので、「自分の友でいられるか」をDIOに問うことはない。ジョナサンはDIOの執着に付き合ってやってるにすぎない。だから、DIOは成長することができない。
袋小路だし、そもそも「人間」DIOは石仮面を被った時点で死んでいる。吸血鬼DIOは、「人間」DIOの死後に残った残滓にすぎない。だから、DIOの根源である「欠落を埋めたい衝動」が欠けている。
DIO、かわいそす。ジョナサンはリア充すぎる! 爆発しろ!
DIOは救われていない。悪だから救われないのは当然という見方もあるが、事実として救われていない。そして、DIOの人格が全く救われざるべきものとも描かれていない。それは、ツェペリとスピードワゴンの描かれ方に見て取れる。
ジョナサンと(生前の)DIOは、人間の両極端といってよい対照的なキャラクターだが、その中間にはツェペリとスピードワゴンが位置している。ツェペリは、目的のために大切なものを捨てた人物だ。DIOと同じく家族を捨て、最後には命も捨てた。深仙脈疾走と石仮面は、そういう意味で同じものだ。
スピードワゴンは、人生に欠落を抱え、よって悪として生き、そしてジョナサンに出会った人物だ。スピードワゴンは、ジョナサンにはなれないことを受け入れ、ジョナサンを支えることに目的を見出した。そして、他人から奪うことなく、砂漠から石油を掘り出すことで人生の埋め合わせを手に入れた。
ツェペリもスピードワゴンも、ジョースターの血族に救われている。ウィルが捨てた家族(隣人)愛は、シーザーからジョセフへと受け継がれた。スピードワゴンと彼が残した財団は、ジョースターの友として認められ、永くこれを支え続けた。彼らの人生の意味は、ジョースターに救われた。
しかし、DIOの欠落を埋め合わせる衝動や、目的のために全てを捨てた悲劇は、誰にも救われていない。ジョルノはどうなんだって話だが、彼は悪を身に付けたジョースターで、欠落を抱いていないし、目的のために何も捨てなかった。プッチなんか、「人間」DIOの何を知ってるでもない。
ディエゴ・ブランドーは、ジョニィと友情を結ぶことも、欠落を埋め合わせることもなく、惨めに死んでしまった。誰も彼を試さなかったからだ。誰も彼を成長させなかったからだ。「遺体」すら、彼に試練を与えてやりはしなかった。神、ひでー。
DIOが、ジョナサンの「運命の相手」たりうるかを試され、ジョナサンに相応しいことを証明して彼を得る。ぼくが書こうとしているのは、どうやらそんな話です。