片岡とも――私的体験としての(『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人30説+』収録)

1.片岡ともという時代
私は片岡ともの熱烈なファン――でした。そう、過去形で表現すべきでしょう。
私がプレイした彼の作品は半数以下、『銀色』から『ラムネ』までのものだけですから、これでファンを名乗り続けるのもおこがましい。しかし、それでもなお私のエロゲー体験において、片岡ともはやはり、特別な存在でした。それは、時代というものがそうさせたのだと、今となっては思います。
私がエロゲーの世界に入ったのは2002年でした。当時は、LeafとKey、いわゆる葉鍵の時代が終わり、次代を担うメーカー・クリエイターが覇権を競いあう状況にありました。そのポスト葉鍵世代において、片岡とも属するねこねこソフトは有力なプレイヤーの一翼に数えられました。
このいわば戦国時代は、2004年の『Fate/stay night』発表をもって、TYPE-MOON奈須きのこの覇権形成という形で終焉を迎えます。従って、ポスト葉鍵時代というものを区切るとすれば、有力なプレイヤーがデビューした1999年から、『Fate』が登場する2004年まで、ということになるでしょう。
そう、私がプレイした片岡とも作品は、まさにこの期間に発表されたものに限られています。それは、私にとっての片岡ともが、ポスト葉鍵という時代と切り離せないものであり、かつ、同世代の諸作品の中でも、特異な意味を持つものであったからです。
2.Keyとの関係
片岡ともの創作活動は、同人ゲームサークル・ステージななからスタートしています。(ただし、このときは原画家として。)そこで制作されたのは、Key作品の二次創作です。ポスト葉鍵世代のシナリオライターに、葉鍵作品の影響を受けていない人はむしろ少ないでしょうが、二次創作出身というのはやはり特異な立ち位置といえます。
多くのシナリオライターは、葉鍵のもたらしたものに立脚した上で、自らの表現を突き詰めていきました。そこにあったのは、葉鍵に対する加算の思考、ノベルゲームというフォーマットに新しいアイディアを付け加えようとする態度です。
片岡ともが行ったのは、真逆のアプローチでした。彼はむしろ引き算を――つまり、葉鍵作品の特定の要素に着目し、それ以外の部分を削ぎ落とすという方法論をとっています。
それは、葉鍵の総括とも呼べる運動であり、彼にとっての葉鍵がどういったものであったのか、という告白でした。
つまり彼は、表現者である以上に語り部であった、といえるのかもしれません。奈須きのこ虚淵玄鋼屋ジン、王雀孫、田中ロミオ星空めてお――彼らエンターティナー、あるいはアーティスト、あるいはクリエイティヴと表現すべき才人たちに比べ、片岡とものシナリオは、木訥として飾らず、ある種の禁欲性に満ちています。そして、“美少女ゲーム”を市場として開拓しようと試みた諸ゲームメーカーと比較して、彼の率いたねこねこソフトの“反利益主義”とも言うべき経営姿勢は、異常とも表現しうるものがありました。
作品外においては多弁な作家であった彼の発言を、私は積極的に追っていたわけではありませんので、想像に拠るしかありませんが――二次創作サークル・ステージななとしての活動は、そうした作風と軌を一にするものだと考えることは、不自然ではないでしょう。そして、彼の私的な経験を直接的に反映したモティーフが、作品にしばしば見られることもまた、私的体験としての葉鍵を表現しようとする運動と一致した現象であると、私には思われるのです。
従って、私にとっても、片岡ともを客観的な視点で評することは、困難である以上に無意味ではないかと思われました。よって、あくまでも当時の私が触れた、私的体験としての片岡ともについて、本稿では述べることをご了承ください。
前置きが長くなりました。まず、彼にとっての葉鍵とはなんだった、ということを検討してゆきます。それを端的に表すのが“日常”です。
3.積み重ね、繰り返し、リフレインする“日常”
ねこねこソフト初期の二大傑作にして、今もってメーカー代表作といえる作品が『銀色』と『みずいろ』です。“ふつうのギャルゲーを目指して…”というコピーを冠し、事件ともいいがたい出来事を綴った『みずいろ』はともかく、中世をも舞台とし、明らかな悲劇性を帯びた『銀色』を日常を描いた物語と評することには抵抗があるかもしれません。
しかしそれは、『銀色』で描かれる日常が、プレイヤーの経験する日常と異なるにすぎません。繰り返される日々の中、積み重ねられるなにものかを描く物語が、日常を表現していないとどうしていえるでしょう。
“繰り返し”と“積み重ね”、そしてその中でリフレインされる特定の“モティーフ”――これは、片岡とも作品を読み解く上で重要なキーワードです。
全五章のオムニバスで成る『銀色』において、片岡ともは一章・五章(エピローグ)を担当しています。一章で描かれるのは、ヒロイン・名無しの少女の、人権を剥奪された娼婦としての日々と、野盗の男・儀助の、山を通る旅人を襲い、その日の糧を奪うのみの日々が交錯し、共に潰える様。そして、月、蛍、握り飯・あやめの花といった、数々の印象的なモティーフです。
握り飯は二人の日常の“積み重ね”によるかすかな変化を象徴しています。自らの生に意味を見いだし得ず、従って他人の命にも守るべき価値を認めなかった儀助は、名無しの少女との出会いにより、襲った相手を殺さず見逃すという選択を、初めて行うことになります。
結果として、この選択が山に武士を呼び込み、二人の死につながるのですが、この作品を私がすばらしいと感じるのは、そこに一切の肯定も否定も持ち込まないことです。
儀助は改心したわけでもなければ、生きるため他人の命を奪うことに抵抗を覚えたわけでもありません。ただ、殺さないことで少し気分がよかった。少女と共にいることで、少し寂しくなかった。二人でいることで、自分が生きていた証拠を残し得た。それは、ただただ“繰り返し”と“積み重ね”のみによって、もたらされたものです。
「生きた証が欲しい」――名無しの少女が実存を求める叫びの象徴であったあやめの花、その真の意味が明かされるのが五章です。自らの死を目前に、わが子を生かそうと地を這いずる女・こずえ。彼女が、最期に目にしたものこそ、野に咲くあやめの花でした。彼女こそ、人生になんの楽しみも幸せも得ることなく息絶えた名無しの少女の母であり、少女が終生知ることのなかった自らの名が、すなわち“あやめ”だったのです。
幸福や恋愛といった手垢の付いた概念に毒されない、純粋な生の実存――私的体験。これが、片岡ともが描き続ける“日常”の先に見いだされる価値観であり、おそらくは、彼の信念とも呼べるものでしょう。
これは、葉鍵の提示した“日常”とは、似て非なる表現です。葉鍵における日常とは、与えられたものであり、守るべきものであり、奪われるものであり、辿り着くものでした。それは明らかに積極的な価値を付与された“楽園”といえます。
これは、特に葉鍵に限った話ではありません。そもそもエロゲーにおける“日常”概念は、選択分岐型AVGというスタイルと密接な関係にあります。それは、ごく乱暴にいえば“共通シナリオ”の文学的表現であり、“なにかが起こる前の状態”、非日常と常に対置されるものです。その“日常”に焦点が当てられるとき、それはモラトリアム的心性と結び付き、“失われようとする幸福”の象徴として立ち現れてきます。
それに対し、片岡とも的な“日常”は、ただ日常であり、失われることも奪われることもありません。生まれてから死ぬまで、一生涯すべて、これ日常なのです。宮台真司曰くの“終わりなき日常”という時代性に関連付けて語ることもできましょうが、“私的体験”への執着という観点からすれば、日常がただ日常として終わりなく在り続けるという観念は、自然に納得できるものではないでしょうか。こうした“日常”は、具体的な技法としても発見することができます。
例えば、片岡とも作品には“伏線”がありません。謎を解くことによってキャラクター・プレイヤーの認識が転回することがないのです。“あやめ”にしても、『みずいろ』日和シナリオにおける“ストローの指輪”にしても、『ラムネ』七海シナリオにおける“光るサカナ”にしても、それは作中でリフレインされるごとに意味を積み重ねられてゆくにすぎず、当初の投影された意味合いからぶれることもありません。それは、『AIR』の操り人形というモティーフがもたらす、往人と観鈴の関係に対する認識の劇的な転回とは、好対照をなすものといえましょう。
また、『みずいろ』における、プロローグ(過去編)時点でのシナリオ完全分岐もそうです。『Kanon』に見られる、選択分岐による過去の事実のゆらぎは、『みずいろ』にはありません。積み重ねられた事実・記憶は決して失われることなく、将来に渡って影響を及ぼし続けます。
葉鍵以来、エロゲーのシナリオにおいて重要とされる“トラウマ”に対して、こうした“日常”描写は新たな見解をもたらします。切り離された過去の出来事が現在を規定するのではなく、ただ、過去と現在を一貫した“日常”がつないでいるだけなのです。すなわち、幼少期の体験は“心的外傷”ではなく、そのまま“人格形成”として描かれることとなります。
従って、リフレインされるモティーフは過去から蘇る亡霊ではなく、永遠に現在進行形で語られるものなのです。ただし、積み重ねられる生の実存として――健次と七海の勝敗のように。
葉鍵的でいて、全く正反対でもある。相反する性質を併せ持つこうした“日常”概念は、葉鍵的なるものに対するジンテーゼともいえます。そしてそれは、まさしく“私的体験としての葉鍵”であるゆえに、現れたものではないかと、私には思われるのです。
4.幼なじみへの執着
片岡ともの“幼なじみ”に対する強いこだわりについては、今更指摘するまでもないでしょう。ねこねこソフトの“青系ライン”、すなわち『みずいろ』『ラムネ』そして最新作『そらいろ』の三作品すべてにおいて、片岡ともは幼なじみのメインヒロインを描いています。(もっとも、これらの作品は幼なじみだらけなのですが。)
繰り返され、積み重ねられる日常が、幼なじみという形を取って現れることはごく自然といえます。一方で、これはある種の古典的な幼なじみ像を否定するものでもあります。
エロゲーに限らず、恋愛を扱った作品において、幼なじみという“属性”はしばしば恋愛の妨げになります。互いに異性を意識する年頃になったものの、近すぎる関係ゆえにかえって恋愛には至らず、なにがしかの突発的なイヴェントによって従来の関係が破壊され、ようやく結ばれる――というのが、ラヴストーリーにおける典型的な幼なじみ像でしょう。近年の作品でわかりやすい例を挙げるなら、『ちぇりっしゅBOX』でしょうか。
しかし、片岡とものドグマは“繰り返し”と“積み重ね”です。二人は恋人同士になったとしても幼なじみをやめるわけではなく、その差異はまさしく空や海の色のごとく、グラデーションめいて曖昧です。幼い頃に交わした結婚の約束がそのまま叶えられる日和シナリオなど、ベタすぎてかえって他に類を見ないといえます。
こうした幼なじみの物語は、当然ドラマ性を欠き、退屈の謗りを免れないものとなります。しかし、その欠点を補うのも、また“繰り返し”と“積み重ね”です。モティーフのリフレインによって、なにごともない日々の出来事が重大な意味性をもって迫ってくる様は、独特の感動をもたらしてくれます。これもまた、長さがもたらす感動――葉鍵がもたらしたもの、それに対するジンテーゼといえましょう。葉鍵的テーゼとしてのそれは、ある意味では、膨大な日常シーンの山が崩壊することで成るものだからです。
片岡ともが、いわゆる“トラウマ”に基づくそれに近い作劇手法を用いながらも、その展開においては極めて特異であることはすでに述べました。それは、主人公とヒロインの関係性の扱いにおいてより顕著になります。
葉鍵後のエロゲーにおける主人公とヒロインの関係は、“呪い”であるといえます。それは逃れ得ぬ宿命であり、悲劇を内包する運命であり、主人公は自らの意志と隔てられたところでヒロインと関わらざるを得ません。物語の実質的な“主人公”はヒロインである、という言説にも頷けるものがありましょう。
そこで、ポスト葉鍵作品の多く――例えば『斬魔大聖デモンベイン』は、呪いを祝福にすり替える“解呪”を行い、ヒロインの物語に関わる主体的な意志を主人公に与えた『Fate』がポスト葉鍵時代を終わらせることになります。また後には、“過去に犯した罪”と主体的に向き合う主人公を描いた『ロストチャイルド』という傑作も生まれるのですが、片岡ともの回答はやはり、そのどれとも異なるものでした。
彼はそもそも、ヒロインとの関係を呪いとはしませんでした。といって、単に祝福と定義したのでもありません。それは自己の拠って立つ根拠であり、あえていうなら“救い”でした。ただしそれは、自らの抱えるなにがしかの問題を解決してくれるからではなく、そこに己の歩んできた生が刻み込まれている、ただそれゆえになのです。
日和と七海、それぞれの理由で主人公との断絶を経験する二人の幼なじみは、その運命に悲劇を内包しつつも、それによって印象づけられてはいません。むしろ、悲劇に耐え、立ち続けるための根拠となる“日常”こそが、力強く描かれています。
それは、生の根拠なき全肯定でした。幸福であったからでなく、ただ互いが互いであるゆえに、健二は日和の、七海は健次の帰りを待つ。つまり、それは愛でした。恋ではなく、最初から愛であるゆえに――彼らは従来の関係性の断絶を必要とはしなかったのです。
これは、葉鍵がもたらした“毒”に対する、明確な回答といえます。それは解毒ではなく無毒化――究極的なデトックスです。
5.旅と病院
片岡とも作品において、しばしば現れるモティーフが“旅”、そして“病院”です。これは、彼の私的体験を根拠としたものでしょう。どうやらツーリング趣味があるようですし、詳説は避けますが、『ラムネ』スタッフコメントでは、彼の“病院体験”について語られています。
従って、これらのモティーフは、次第に商業的活動から離れたところで描かれるようになっていきました。無料おかえしCDから始まった120円シリーズ第2編『120円の冬』では全編が“旅”となり、そしてフリーソフトとして提供された『narcissu』は、まさしく“旅”と“病院”にまつわる物語となっています。
旅は慣れ親しんだ日常を離れる行為であり、病院は死に限りなく近い場所です。つまり、これらのモティーフは“日常”と対極に存在するものといえます。では、そこには日常は存在しないのか――否、そうした一見非日常的なシチュエーションにこそ、繰り返し積み重ねられる日常性を見いだすことが、片岡ともの真骨頂なのです。
通過儀礼”という言葉があります。“旅”やある種の“臨死体験”(バンジージャンプがそれです)などは、己の人生を区切り、大人としての新たな人生を踏み出す儀式として、各地の風習に残されています。また、非日常的体験を“通過儀礼”として描くジュヴナイル・ロマンの例も、名作『スタンド・バイ・ミー』を初めとして、枚挙に暇がありません。
線路の最果てを目にする『120円の冬』、異郷の地で死にゆく者の義務を継承する『narcissu』は、まさしくそうした“通過儀礼”的な物語です。
にもかかわらず、これらの作品があくまでも“日常”を描いているといい得るのはなぜなのか。シナリオ分岐が存在しないため、システム的な日常/非日常の分離がありえないという理由は指摘できます。二日以上の繰り返しはすでに日常であり、その日常が“通過儀礼”の前にも後にも存在することはもちろんです。しかしなにより、“非日常”から徹底してファンタジー――特別な出来事を排除する、片岡ともの姿勢があります。
『120円の冬』において小雪が目にする“星”は、どこにでもある電飾です。『narcissu』で旅の果てに辿り着く淡路島は、人生観を変えるような美景ではありません。そして彼らは、試練と呼ぶにはあまりにみみっちい、無賃乗車や窃盗に手を染めます。
旅で出会えるものは、旅に出なくても見つけられるものでしかなく、死に接して感じられるものは、それまでの人生で身の回りにあったものにすぎません。それはむしろ、なにかを――免許証を必要とする未来や、コンタクトレンズを――落としてしまったために、たまさか目に入る、それだけのものなのです。
しかしそれは、彼らの体験が無価値であるということにはなりません。非日常は日常であるゆえに、日常と同じように尊いのです。それは、今そこにある生の実存を“確認”する行為といえます。そして、その“普段と異なる日常”にのみ存在するヒロインとの関係のために、それは一編の物語たりうるのです。
それはつまり、認識の変容を描いた物語といえます。その意味で、『俺たちに翼はない』との比較は可能でしょう。ただし片岡ともにおいては、過去の“日常”は死なず、変容を飲み込んで在り続けることに留意しなければなりません。世界は薔薇色ではない――それを肯定できることが尊いのです。
6.私が片岡ともに見いだしたもの
エロゲーマーという言葉は、現在ほぼ死語になったといえるでしょう。
それは、葉鍵とともにもたらされた在り方でした。現代思想エロゲーを論じ、プレイヤーは“エロゲーをプレイする私”という実存を獲得しました。それは、web上においては、エロゲーレビューサイトの隆盛と軌を一にするものといえましょう。
安易な言い方をすれば、エロゲーが文学性を獲得したということになります。それは、エロゲーの在り方が、プレイヤーの在り方をも規定することを意味しています。
そうした状況を端的に表していたのが、“休日シリーズ”でしょう。これは、エロゲーヒロインのPOPや抱き枕を抱えて旅に出、“記念写真”とともにその情景を綴ったコンテンツ群です。
CLANNAD』の登場を待つまでもなく、エロゲーは人生だったのです。私にとってもそうでした。大げさに聞こえるかもしれませんが、私の人生は、エロゲーをプレイするためのものに変わってしまったのです。エロゲーは、私たちの実存と、わかちがたく結びついたものでした。
しかしそれは、エロゲーのストーリーが、ではありません。すくなくとも私にとっては、“エロゲーが”だったのです。映画を人生の友とする人が、映画館で映画を観ることにこだわるように、私は――私たちは、エロゲーという私的体験を人生の伴侶としたのです。
しかし、ポスト葉鍵時代の作品群は、読み物としての強度を高めることに狂奔してゆきました。エロゲーは、そのストーリーが優れているゆえに“文学”たりえたのではないのです。ソフトを買い、マウスをクリックし、選択肢を選び、ヒロインと結ばれる、その一連の体験が“人生”だったのです。
私が片岡ともを信仰したのは、そうした“人生の伴侶”たるの作品を提供してくれたためでした。“ふつうのギャルゲーを目指して…”――片岡とも作品は、体験としてまさにエロゲー的であり、そうした私の生を肯定するものだったのです。
私にとってのエロゲーとは、キャラクターとともに人生をまっとうすることでした。そのためには、彼らの生が幸福であることも、劇的であることも必要なく、ただ実存だけが重要だったのです。実存の肯定だけが救いだったのです。ゆえに、『120円の冬』は、私にとっては確かにエロゲーであり、その金字塔ともなりました。
――私的体験としての片岡ともについて書いてきた以上、私と片岡ともの別れがいかなるものであったのかを語ることが、本稿の終わりにふさわしいでしょう。
『ラムネ』をプレイして、片岡ともが描くものが、エロゲーという体験から、彼自身の、誰とも共有できない私的体験に移りつつあることに、私は気付きました。共有体験とは結局のところ幻想にすぎないとすれば、それは単なる幻想の終わりであったでしょう。そして、“映画的”を標榜する『朱 -Aka-』の出来に幻滅し、まさしく“映画的”な『スカーレット』の発表を見たとき、私は、エロゲーが私のリアルでなくなったことを、認識したのです。
これが、私が体験した、片岡ともという時代です。それは“通過儀礼”のように、ある時期を境に終わりを告げました。しかし、それは私の中から片岡ともが消えることを意味しません。私の日常は、彼という存在を織り込んだまま、繰り返され、積み重ねられ、今なおリフレインし続けているのです。