アサウラ『バニラ―A sweet partner』と冲方丁――「虐げられた少女の、抗撃としての銃」/「まなざし」の暴力性

 『バニラ』は、アサウラのデビュー作である『黄色い花の紅』の続編的作品といえる。一部登場人物も共通するが、それ以上に、「虐げられた少女の、抗撃としての銃」という印象的なモチーフだ。
 前作では「虐げられた少女」に「かつて少女であった大人の女」が「抗撃の手段を与える」という筋立てであったものが、『バニラ』では「虐げられた少女二人」が「たまたま転がり込んできた抗撃の手段」をもって世界に儚い抵抗を行う形になっている。また、雰囲気程度だった百合要素も、ストレートに同性愛として表現されている。

冲方丁の場合

 『バニラ』を読んで真っ先に連想したのが、冲方丁マルドゥック・スクランブル』だった。これもまた「虐げられた少女の、抗撃としての銃」というモチーフを扱う作品だが、その現れは大きく異なっている。
 冲方においては、『マルドゥック・スクランブル』を中心として、その後継的作品である『オイレンシュピーゲル』および『スプライトシュピーゲル』のシュピーゲルシリーズ、原型的作品である『ばいばい、アース』が似通った作品として存在する。そのいずれも、「少女と銃(武器)」を、社会と人類と物語の問題意識において、積極的に取り上げる。そこには常に、「少女と武器」を取り上げる舞台として、「制度」が存在する。『ばいばい、アース』の「理由の少女」、『マルドゥック・スクランブル』の「マルドゥック・スクランブル−09法」、シュピーゲルシリーズの「児童福祉法」がそれにあたる。これらの「制度」は常に少女への「まなざし」として機能する。例えば「09法」は、証人の保護を目的として、犯罪被害者への「禁止された科学技術」の使用を認可する法律である。これにより、少女ルーン=バロットは裁判における証人として、犯罪被害者として、そして危険な科学技術による超人として、あらゆる形での「注目」を受ける。それは社会の、報道の、犯罪加害者の「まなざし」であり、そして彼女を守る立場にある事件屋――ウフコックとイースターもまた彼女を「まなざす」者として例外ではない。さらには、バロットが少女娼婦として設定されていることが、この視座を決定的にしている。そもそも作中呼ばれるルーン=バロットという名は源氏名なのだ。これにより「09法」という制度は売春という制度と重ね合わせられ、「まなざし」の主として男という性を明白に浮かび上がらせる。
 作中バロットは、家庭では性的虐待を受け、それを止めようとした兄が父を撃ったことで家庭が崩壊し、娼婦に身を落として商品として扱われ、そこから拾い上げてくれたシェル=セプティノスには自由意思を禁じられ、ついには犯罪の歯車として利用される。しかし受けた不幸よりも、主体性を剥奪され対象として「まなざされる」ことが彼女を傷つける。裁判という合法的な場であっても、バロットを「父を誘惑した淫乱女」「将来有望な男を破滅させようとする悪婦」、そして「巨悪を暴くための証人」として「まなざす」点では同じだ。
 ここでは、「まなざし」の暴力性が強烈に意識されている。少女を虐げる力とは、必ずしも肉体的・精神的な虐待ではなく、少女を某かの対象として――主体ではなく客体として扱う「まなざし」に宿る。それこそが逃れようがない暴力であり、「まなざし」に対して銃という「武力」をもって立ち向かわざるを得ないねじれに、最大の悲劇がある。そして、「まなざし」を向けるだけで少女を虐げてしまう者が、いかにして少女を救えるのか、少女のためになにができるのかが、物語上最大の倫理的問いとなっている。事件屋もまた、バロットを「自己の有用性を証明する」ために、利用せざるを得ないのだ。
 「傷つけられる性」である少女に対し、「傷つける性」である男が何をできるのか。これは、相田裕GUNSLINGER GIRL』の中核的テーマでもある。この問題に、相田が「少女の得たもの」をもって暫定的回答としているのに対し、冲方は少女の得た幸福も満足も誇りも回答としては受け入れず、あくまで「最大限の善を行い続けること」を提示している。これは男性側の倫理的問題に誠実に答えるとともに、少女の「不完全ながら最大限の抵抗」を肯定するためのカウンターパートでもある。力関係こそ一方的だが、あくまでも男と少女の関係は双方向性を持つ。それゆえ、バロットもまたウフコックを「意のままにできる武力」として「まなざし」、「レイプした」のだ。これは両者の力関係とは無関係の、完全に双方向的な事象としてある。
 このように、冲方の作品世界は、常に「男」と「少女」の双方向的な関係性を含む、両者の混淆する場としてある。

『バニラ』の場合

 『バニラ』は百合作品である。物語は海堂ケイと梔ナオ――少女二人の関係性を軸として進む。描かれているのは、ともに虐げられ、手を取り合って世界に反抗する少女の姿である。
 『バニラ』の物語世界は、このような少女の心象を反映して構築されている。少女を虐げるものは全て世界の外部であって、世界の内部には「まなざし」が存在しない。そこにあるのは、自分の愛するものを全て自己と同一視しようとする態度である。
 ケイの思い出の中の優しかった両親は、ケイを「まなざす」ものとしては描かれない。それはただ抱きしめてくれる存在、いかなる視座にも立たずケイを肯定する存在である。ゆえに、妻を亡くしたケイの父は、ケイに役割――よき娘――を求めたことで、否定される。ナオをレイプしたナオの兄が、ナオを女として、性欲の「対象」にしていることはいうまでもない。
 このような存在は、「まなざし」の存在しないケイとナオの世界からは排除される。ケイとナオの世界は、互いを肯定するために根拠を必要としてはならない。ケイとナオが親友となったのは、互いのために何かを行ったからではなく、ただ互いを理解し、それを受け入れたことによる。この点は、「自己を肯定する根拠」=「愛」を必須のものとする『マルドゥック・スクランブル』とは対照的だ。
 作中、ケイとナオの最も心安らぐ居場所として語られるのが、老婆が経営する甘味屋である。夜の仕事をする女性が多く集まるこの店は、互いを詮索せずただそこにいさせることを美点とする。閉店を惜しんで集まる常連の中には、前作『黄色い花の紅』の二人目の主人公、白石奈美恵の姿もある。彼女もまた、武力を生業とする、素性怪しからん人物だが、『バニラ』で言及されることはない。この作品ではそうした「優しさ」が肯定的に描かれている。ここでは、女たちは「まなざし」から逃れ、優しい無関心の中にあって安らぎを得るのだ。
 このような違いは、『マルドゥック・スクランブル』と『バニラ』の銃撃戦の違いにも現れている。前者のそれが互いを視界に捉えるインファイトであるのに対し、ケイとナオは狙撃手である。狙撃手にとって、インファイトは生命線である距離の侵食であり、スコープ越しの「まなざし」に相手からの「まなざし」は返らない。
 ここで、『バニラ』において、殺人が罪とされることは当然ながら、スコープ越しに一方的に相手を「まなざす」ことが糾弾されていないことに注目したい。銃が合法化された仮想未来において、人を撃つことは即、撃ち返されることにつながる。しかし、狙撃という行為の倫理性は問われていないのだ。「まなざし」の暴力性の認識が欠如している。
 これは、単に『バニラ』において、暴力が「まなざし」によって定義されていないことを示すのだろうか。ケイの父は後妻という「不幸」、ナオの兄は性的虐待という「不幸」を持ち込んだことで糾弾されているのだろうか。
 『バニラ』の後半では、マスコミと野次馬が大きな要素として扱われている。放送部長の尾山は、ケイとナオに協力する見返りとしてインタビューを行う。尾山の発案によって事件はマスコミにリークされ、その「まなざし」を担保として二人は籠城を行う。ケイとナオは、マスコミと野次馬の「まなざし」に見せつけるようにキスさえしてみせる。
 これは、「まなざし」がケイとナオにとって暴力たりえないことを示す描写だろうか。いや、二人は「まなざし」に傷つけられてきたからこそ、「まなざし」を通して抗撃するのだ。「まなざし」を通して「here I am」を突きつけるのだ。そして、自らを暴力的に「まなざし」、勝手な基準で誤った認識を押しつけるだろう「男たち」を、嘲笑するのだ。
 この、一方的な「まなざし」を受けながらの抗撃という構図は、クライマックスの狙撃合戦にも適用されている。最終的な解決手段として、「警察」中島紫炳は狙撃手を動員する。ここにおいてケイとナオは初めてスコープに「まなざされ」、視界外からの銃弾を受けることになる。スナイパー同士の銃撃戦のさなか、ナオはスコープに被弾し、暗中の狙撃を余儀なくされる。当然の結果として、ナオは敗れる。
 『バニラ』においては、少女の持つべき「まなざし」の暴力性が巧妙に隠匿されているのだ。いや、互いに「まなざし」を持たぬことを旨とする少女の世界においては、「まなざし」は存在しないというべきだろう。「まなざし」は外部へと通じる道であり、スコープという経路においてすら、少女はただ侵略を受けるのみだ。
 この『バニラ』における「まなざし」のありようを決定づけるのが、唯一少女の味方となる「男」である、警察官の元川と中谷だ。彼らは、ケイとナオに「感情移入」してしまっていると語る。そしてそれは、警察官の使命として二人を逮捕することとは背反する命題とされる。被疑者として二人を「まなざす」ことと対比されるのは、二人の立場に「移入」し、一体化することなのだ。
 元川と中谷は、交渉人としてケイとナオの立てこもる学校に赴く。彼らの呈する倫理的な問いかけは、「他の手段は取れなかったのか?」であり、それに対するケイの答えは「間違った手段であることはわかっているが、他にやりようがなかった」となる。これは、少女と男の立場が絶対的に不均衡であることを前提とした問答だ。少女自身の「まなざし」を要件に含まない問答において、彼らはそれ以上の語る言葉を持ち得ない。これは、「ケイ自身も、理想の父として父を「まなざし」ている」という指摘で、完全に打ち破れる袋小路だ。少女の奉じる世界観に乗っ取った会話で、少女の屁理屈を破れるはずもない。むしろ、「まなざし」の暴力を指摘されることになる。「ナオは兄にレイプされた少女として見られることを望んでいない」という反論は、この前提条件では破りようがないのだ。
 元川と中谷を利用した機動隊の強行突入によって、この説得は失敗する。屋上に追い詰められ、自殺を図ろうとするケイとナオに対して、元川と中谷は最後の倫理を発する機会を得る。
 それが、「君たちに代わって不幸を解決するために、俺たち警察官がいる」という倫理なのだが、これは少女と男の立場の不均衡を完全に前提としてしまっており、明らかに説得の要件を満たしていない。そしてやはり、この倫理はケイとナオの心には全く届かず、二人はただ殴りあう男たちを眺める時間によって落ち着きを取り戻し、投降することになる。
 ここで、最終的に示される、精一杯の「男」側の倫理が、少女に向ける「まなざし」の暴力性を全く引き受けていないことは糾弾されてしかるべきだろう。彼らは、男として少女に向けざるを得ない「まなざし」を引き受けず、少女の側に立つことで倫理的誤謬を回避しようとしている。「我々は被保護者として君たちを『まなざす』から、それを受け入れろ」とはほとんど憤飯ものだ。ケイは一貫して、そのような不均衡に抗撃する手段が銃しかなかったと主張しているのであって、代わりに抗撃してやるから不均衡を受け入れろでは説得にも何にもなりはしない。しかしまた、少女であるケイとナオもまた不均衡に安住しており、虐げられる心情を理解し受け入れてくれる「互いさえいればいい」という結論に陥っているのだ。
 これは、「虐げられる少女」のカウンターパートである「虐げる男」側の倫理的考察が全く欠如していることから生まれている書き筋だろう。代わりに『バニラ』が注力しているのは少女の心情を丹念になぞることであって、それが百合描写として結実している。これはライトノベルというより、少女小説的な手法だ。
 それ自体は立場の違いにすぎないし、どちらが良い悪いと単純にいえるものでもない。しかし、『バニラ』を男性を主要読者とするスーパーダッシュ文庫で発表する以上は、これが男性の立場からいかにして読まれるかについて、もっと意識的であるべきだったのではないだろうか。
 我々男性にできることは、少女に対してろくな手助けもできない自分を恥じることがせいぜいで、虐げられた少女の儚い生―性を暴力的に消費するレイプファンタジー的な読み方を強いられているようですらある。それはそれで、ある種まっとうな楽しみ方には違いないのだが、ちょっとナメられてるような気がするのは俺だけなんすかね。

バニラ―A sweet partner (スーパーダッシュ文庫)

バニラ―A sweet partner (スーパーダッシュ文庫)