ライトノベルはなぜ必要なのか。あるいはパクリの話。

だいたい世の中の商業フィクションというものは、ユーザーを、その現実社会における属性によってターゲットする。年齢、性別、家族構成、階級……。そうした、多様な属性を持つ人々が混淆する社会の「マス」をターゲットするものもあるが、これは多く、映像作品となる。
なぜなら、映像作品は「わかりやすい」からだ。事を小説(その他の文芸作品)に限れば、その傾向は一層顕著なものとなる。であるから、小説はしばしば、読者だけでなく題材も、特定の社会的属性によって定義付けられるものとなる。
社会的属性によって作品./商品をターゲットするのは、読者/消費者の行動が、それによって方向付けられるからだ。しかし、そうして作られた作品/商品は、容易に「社会的」なものに変貌する。
例えば、「子供」という社会的属性をターゲットして製作される子供向けアニメが、しばしば子供の「健全な成長」をうながすような物語となるように。
「社会的」でないフィクションを、商業流通を前提として製作するのであれば、消費者の社会的属性によらない、マーケティング上のバックボーンを持たねばならない。それは、例えばポルノグラフィに近いものとなるだろう。
ラヴストーリーとポルノグラフィは異なる。どちらも、消費者の異性を求める欲望にアプローチするものではあるが、恋愛とはしばしば、社会的属性と結びついて、発露するからだ。ハーレクインの登場人物が、ことごとくセレブリティであるように。
より曖昧な、「美少女への欲望」をターゲットする、ポルノグラフィ的なアプローチは、消費者の社会的属性から、最大限、解き放たれたものとなる可能性がある。そういう意味で、ライトノベルエロゲー化している現状は、なんら不思議なものではない。
そうした、エンターテインメントというよりはポルノグラフィ的な、ある種のフェチズムに基いたフィクションとして、ライトノベルはある。
さらには、社会的属性に拠らない消費者のカテゴリーとして、リピーター/ファン./マニア/オタクが存在する。ひとたびこの消費行動を身に付けた消費者は、もはや自らの社会的属性によってでなく、純然たるフェチズムによって、作品を消費する。
オタクと総称するが、この種の自己目的的に特定ジャンルを消費する消費者をターゲットすることによって、特定の社会的属性に依存しない商業創作が可能になりうる。一方で、それは、再帰的自己模倣によって、自壊する危険も孕む。
また、特定の社会的属性をターゲットしないためのソフトポルノ性が、「未成年」をターゲットするものに変貌したとき、自己目的的に特定ジャンルを消費する消費者を意味したはずの「オタク」が、社会的属性としての「オタク」になったとき、ライトノベルは、成長性を失う恐れがある。
つまり、ライトノベルの「"成年マークの付かないエロ小説"化」や、「"オタクのオタクによるオタクのための小説"化」は、まあ、みんな多少なりと袋小路っぽく思ってるだろうが、そういうことなんじゃないかと。
前者、「未成年向けの不健全図書」というスタイルは、社会的属性に基くマーケティングからは出てこないだろうが、それは可能性がないからで、そうなったら最後、抑圧を呼ばずにはおかないだろう。おれだってそーする、誰だってそーする。
だから、ライトノベルのソフトポルノ性というものは、あくまでも「空から女の子が落ちてくる」的ご都合主義に、求められるべきものと思う。
そして、ライトノベルが、社会的属性から解放された創作の場としてあり続けるためには、「持続可能な再帰的自己模倣」を目指す必要がある、ということになる。オマージュ資源はたいせつにね!というか。
それではライトノベルは、SFやミステリや仮想戦記や時代小説と同じ、ある種のジャンルフィクションではないのか。ある意味ではそうだが、ライトノベルを読むのに教養は必要ない、というところが異なる。
共有される基礎教養を備えた読者、というものはすでに社会的属性といえるから、それでは成長性に蓋をしてしまう。ライトノベル(または準ずる創作)の可能性は、再帰的自己模倣の始点を「美少女(あるいは美男子)」という抽象的概念に取ったところにある。
であれば、ライトノベルにおいてボーイ・ミーツ・ガール的な物語類型が主流を占めることも頷けるというもので、社会における自己を飛び越えたところでの美少女との出会い、つーのがライトノベルの本質的な強みに近いところにある。