人間否定、からの解放~『チェンソーマン』第102話

チェンソーマン102話がすごくすごくすごかった。読んだ直後に3時間近くSkypeしてしまった。ので、感想をしたためる。
チェンソーマン』、『さよなら絵梨』、『ルックバック』のネタバレを含むため注意。

あと、藤本タツキ先生は本当に才能ある作家で、尊敬の念に堪えないが、同時に タツキこの野郎クソ野郎 という気持ちも否定し難いので、 以後タツキと表記する。

前回までのあらすじ

アサはユウコに親切にしてもらって仲良くなったが、コウモリの悪魔に遭遇してしまう。ヨルこと戦争の悪魔は全力を出せず、二人に危機が迫る。

今回のおはなし

コウモリの悪魔からの逃走劇の最中、ユウコは足を負傷し気絶してしまう。絶望的な状態のユウコを前に、ヨルは、ユウコを殺して不器にするようアサへ迫る。
第98話(第二部第1話)で、アサは不注意からコケピーを殺してしまった。
この事件についてヨルは、アサの後悔はコケピーの死ではなく、「見られた事」
だと指摘する──他に誰もいないこの場で、ユウコを殺す事を躊躇う必要はないと。
(残酷ではあるが、相変わらずヨルはアサとちゃんとコミュニケーションを取ってくる)

操られるように凶器へ手を伸ばしかけたアサはしかし、ユウコを抱えて逃走を続ける。「いつも」のように転倒したアサの脳裏に、かつての記憶が蘇る──現在の人格を決定づけたといえる事件を。
悪魔に遭遇し、母とともに逃げるアサ。足を怪我した野良猫を見つけたアサは、ネコを助けようとして転倒する。アサを助け起こした母は、そのせいで逃げ遅れて死んでしまう。
まさにユウコは猫と同じだった。

そしてもう一つ、読者には明かされなかった(つまりヨルは知っていた)出来事が描かれる。ユウコの「憐れみ」を拒絶するアサに対し、ユウコはこう語る。

「アサちゃんの気持ちはどうでもいいかな!」
結果は間違えても……自分の気持ちが間違ってなければ私はいいんだ!」

この出来事を経て、アサはユウコと行動を共にしていた事になる。

アサにとってのユウコの命は、お母さんが命がけで守ってくれた自分の命より重要ではないだろう。そのために命を捨てる事は、決して「正しく」はないだろう。
だが、だからこそなのだ。だからこそ、それは誰に阿るでも、誰に強いられるでもない、アサの心からの願いだった。てぇてぇ。

しかし、アサにコウモリの悪魔を退けることも、逃げ切ることもできない。当然の結果として、アサはユウコごと、悪魔の巨大な口に捕食される。

その運命をめちゃくちゃに切り裂いたのは、みんなのヒーロー、チェンソーマンであった。
ここで重要なのは、チェンソーマンにアサを救う意思はおろか、恐らくは救ったという自覚すらないということだ。
チェンソーマンが戦っていた相手は、コウモリの悪魔より遥かに強大なゴキブリの悪魔であり、コウモリの悪魔はそれに巻き込まれ、轢き殺されたにすぎない。
アサたちもまとめて轢き殺されていたとしても、全くおかしくはなかった。

アサの決断を知ることもなく、失敗という結果を与えることさえなく、チェンソーマンとゴキブリの悪魔の戦いは続く。
アサはただ、踏み躙られただけで終わるのか──チェンソーマンのべらぼうな暴れっぷりを見ていると、そう思われてならなかった。

もちろんそんなことはなかった。『チェンソーマン』が、そんな薄っぺらな物語であるはずがなかった。
追い詰められたゴキブリの悪魔は、チェンソーマンに人質と「命の選択」を突きつける。いわゆる、トロッコ問題である。
レールに乗っているものが違いすぎてわかりにくいが、これはヨルがアサに突きつけた選択と同種のものだ。
どちらも否定すべきでない両者の、どちらかを否定させる。その構造に残酷さがある。

果たして、チェンソーマンは躊躇わなかった。ノータイムでゴキブリの悪魔を惨殺し、レールに乗っていた命はどちらも失われる。
しかし、チェンソーマンは全ての救うべき命を切り捨てたわけではなかった。

ネコもいたよ

彼は自らの意思と力で、三つ目のレールを作り出し、それを選択していたのだ。
天才すぎる。完全にぶったまげた。

しかし、このセリフのスゴさは、トロッコ問題に対するべらぼうな解答だからではない
この一言によって、ここまでの展開がまったく意味合いを変えてくるからだ。

種モミメソッド

僕が勝手に「種モミメソッド」と呼んでいる作劇手法がある。

正義なき力が無力であるのと同時に力なき正義もまた無力なのですよ

これは『ダイの大冒険』アバン先生の教えだが、元ネタを遡ればパスカル『パンセ』であるらしい。
これは、『ダイの大冒険』に限らず、少年漫画ではかなりメジャーなテーマだ。
そして、正義(善)と力を合わせ持つヒーローが、ある種の理想像として表現されることになる。

その最も典型的な表れが、『北斗の拳』第2話に登場する、種モミを守ろうとするじいさんだと思う。

そうすればもう食料を奪い合うこともない争いもなくなる
今日より明日なんじゃ

じいさんの行いは美しく正しいが、力なきゆえにその命は奪われ、切なる願いは踏み躙られる。
そして、善と力を合わせ持つケンシロウは、じいさんを認め、共感し、肩入れする。

実るさ… 下に あの老人が眠っている

守りきれたかという「結果」は重要ではない。 守りきれなかったことに悲しみが起こるのであれば、それによって無力な善の価値は担保されるからだ。

今回の『チェンソーマン』は、全く逆のことをやっている。
無力なアサの善を、チェンソーマンは一顧だにしない。むしろヒーローの存在によって、アサの善は決定的に踏み躙られ、否定される。

しかし、物語はその意味合いを全く変えてしまう──その話をする前に、アサを襲った残酷さについて別の角度から考えてみたい。

「必然=人間賛歌」の否定

少年漫画の世界で「人間賛歌」を描いた作品といえば、真っ先に上げられるのが『ジョジョの奇妙な冒険』だろう。
ジョジョ』は長きに渡って連載され、様々な形で人間の素晴らしさ=黄金の精神を描いてきた。中でも最も印象的なものを挙げるとすれば、第五部『黄金の風』に登場する、アバッキオの警官時代の友人である。

そうだな…わたしは「結果」だけを求めてはいない
「結果」だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…………近道した時、真実を見失うかもしれない
やる気も次第に失せていく
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている
向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう? 向かっているわけだからな……………違うかい?

(強調は筆者による)

黄金の精神の代表例として、つとに有名な一連のセリフである。
「結果」が重要ではないというところで、ユウコのセリフとの類似性も感じられるが、ここで強調したいのは、時空を超越する普遍性こそが、黄金の精神だということだ。

少しネタバレになるが、彼自身もアバッキオも、結局「犯人」に辿り着いてはいない。人生は有限なのだから、諦めなければなんでも成せるわけではない。
しかし、それが「黄金の精神」に基づいた「真実の行動」であるならば、普遍的な黄金の精神を持つ他の、あるいはその次の誰かが、いつかは真実に辿り着く。
超時空的・普遍的な善が、現実を生きる個人の中に息づいている。ゆえに、その行動は必然的に真実に辿り着く。「一切衆生悉有仏性」にも似たこの概念が、『ジョジョ』における人間賛歌の根本思想だといえる。

これにある意味では似て、ある意味では正反対の人間観を持つ作家が、伊藤計劃だろう。
ここでは詳しく述べないが、伊藤の人間観は、「個人に魂は存在せず、人間性はネットワークが落とす影にすぎない」とでも表現できよう。
人間性の本質が個を超越したネットワークであるという点までは、『ジョジョ』の人間観と似てはいる。しかし伊藤にとってそれは、個人が高次元へ接続しうる可能性とはならず、個人の尊厳を剥奪してしまう。
伊藤世界における人間は、偶然人間らしく見えている現象にすぎない。必然性の否定が、既に絶望的な人間性の否定なのだ。
これは、人間の本性が悪であるゆえに、必然的に絶望に辿り着いてしまう、虚淵玄の人間観とも全く異なっている。

アサを襲った残酷とは、まさにこの必然性の否定といえる。
「結果」に囚われない「真実の行動」が、その人間性とは 全く関係のない、完全なる「偶然」 によって、「結果」を押し付けられたからだ。
「揃って生き延びた」という「結果」には意味がない。じいさんが助からなかったことは重要ではない。アサの尊厳は、ヒーローがもたらした「偶然」によって、徹底的に踏み躙られたのだ。

「ネコもいたよ」

この、あまりに残酷すぎる人間否定の物語を一転させたのが、チェンソーマンが放ったこの一言だ。

猫と比べられた人間の命が、少なくともその特権性を否定されたことは間違いない。
しかし、「ネコいたよ」と言ったチェンソーマンが、猫を人間より高みに置いたわけでもない。平等な命の価値は、確かに肯定されている。
そしてなお、チェンソーマンが猫を救うことができたのは、力があったからにすぎない。

だがそもそも、彼が猫を救おうとしたことに、第一部での経験が影響していないはずがない。
ニャーコの存在なかりせば、パワーちゃんとアキとの生活なかりせば、彼は猫を人間と同等に重んじただろうか?
しかし、彼の家族は悪意の暴力によって奪われた。
にもかかわらず、家族がもたらしたものは、彼の中に確かに息づいている。

どれだけ考えても、善を否定する暴力と、暴力を否定する善が、互い違いに顔を出す。
ヒーローに擁護されず、偶然によって蹂躙された人間の尊厳が、しかし、完全に否定されることもない。もちろん、退避される暴力もそうだ。
善と暴力が、ウロボロスのように互いを飲み込み続ける。いつまでも論理が完結しない。

その、この世界のありようを、タツキは絵でもなく、セリフでもなく、クオリアとして脳内にブチ込んできた。

そして、ここにおけるチェンソーマンは、爆発オチと同様の事象でもある。

物語を超克する物語〜『さよなら絵梨』

またここから長くなるのだが、今回のチェンソーマンを語るに当たって、『さよなら絵梨』を無視することはできない。

チェンソーマン』第一部完結から第二部開始の間に発表された短編『さよなら絵梨』は、物語の持つ力を描いた作品である。

冒頭、まず物語のポジティブな力が描かれる。悲しい出来事を昇華し、前向きに生きる力に変え、もって見たものに感動をも与える。
それを爆発オチで台無しにした主人公・優太が、大顰蹙を受けるのはあまりに当然である。
しかし、真相が明かされるごとに、その印象は反転する。
母親は見にくい現実を美しい物語で粉飾しようとし、そのために家族を傷付けて恥じず、死んだあとも呪いを残した。
他者を支配し、都合よく操り、架空の価値のために消費する。 物語が持つ邪悪な力が、そこにはっきりと現れる。

母と同じく死に行くヒロインを撮影することで、この呪われた物語を「語り直し」、自己を再生しようとする試みが、物語の主要な部分になる。
一見して残酷だが、そこには強いられた行為か、主体的に選び取った行為かという決定的な違いが存在する。
まさに優太は自ら望んで、ある種の快楽を伴って絵梨を映像に残し、関係性の構築とともに自己を再構築していく。性的DVとらぶらぶえっちくらい違う。
しかししかし、再度のネタバラシとともに、この印象もまた反転するのだ。

絵梨は吸血鬼であり、生命体としては不死であった。
優太に撮らせた映画は、復活後の自分が「生前」の人格を継承するための、美化された記録映像にすぎなかった。
絵梨の行為が母親のそれよりもおぞましいのは、ただ優太に目的さえ告げずに利用したからではない。
それは、自分自身さえ洗脳し、粉飾し、都合のいい存在に作り替えようとする、最も醜悪な物語の力だからだ。
語り手を支配した物語は、癌細胞のように際限なく増殖し、正常な細胞のふりをして他者にさえ襲いかかる。
自己再生のプロセスを深く共にした異性から、このような醜悪極まる行為を受けることは、人生を台無しにしてあまりある仕打ちだ。

だから優太は、その物語を台無しにした。
爆発オチとは、物語の支配から逃れようとする運動なのだ。

『さよなら絵梨』は、物語を超克する物語なのだ。

物語の加害性〜『ルックバック』

タツキの野郎は、物語が持つ邪悪な力を、自分が生み出す物語が有する鋭すぎる刃を、かなり自覚していると思う。
それは、「漫画家漫画」である『ルックバック』からも見て取れる。

京本を殺した男は、藤野にとっては圧倒的な理不尽だが、京本にとっては、自ら作り出した物語によって狂ってしまった、邪悪な物語の奴隷だ。
優れた物語ほど、読者の内なる物語に強く働きかけ、自家中毒を起こさせる力をも持ち得る。
「物語の支配」という見方をすれば、『ルックバック』には『さよなら絵梨』と極めて似た部分がある。

タツキが自身の危険性をハッキリと意識したのは、アキとパワーを死なせた時ではなかっただろうか。
あるべき結末のために、二人の死を描くことは必要なことではあったが、それは、あまりにも読者を傷付けすぎた。
今になってファミリーバーガーのくだりを読み返すと、ある種の「焦り」のようなものを感じなくもない。ギャグでなんぼか中和しないと、まずいことになる──といったような。

チェンソーマン』第一部完結後のタツキは、立て続けに短編を発表するが、そこにはほぼ常に、物語からの離脱力が見て取れる。
二人で共有した物語に引きずられず、自分一人だけの物語を生きることを描いた『ルックバック』が、無視できないほどの自家中毒を撒き散らしてしまったことは皮肉だが、タツキはそこで挫折することなく、さらなる「実験」を展開してゆく。
その極北が『さよなら絵梨』であることは先に述べた通りだが、本作には、これ自体もまた物語であるという決定的な矛盾が存在する。
二回目のネタバラシから、段階的かつ急進的に非現実度合いを増していくことは、「こんなまんがにまじになっちゃってどうするの」という『たけしの挑戦状』メソッドであったかもしれないが、このやり口は、「物語に囚われたままの読者を置き去りにする」という邪悪さを発揮してしまいかねない。

物語の相克、そしてアート

しかし今回のチェンソーマンは、ザボエラ基準で言っても完全な「改良」に達している。

「ネコがいたよ」によって、物語は暴力と善が互いを飲み込み合い続ける相克を形成し、円環として閉じる。
朝と夜のように、チェンソーの刃のように、それは回転し続けて終わりがない。

一見すると、これは物語からの離脱には反するように見える。しかしそもそも、人間は物語の、心理学的に言えば神話の中を生きているではないか。
「物語を捨てて現実に帰れ」というテーゼは、残酷なのではなく不可能だ。人が帰る我とは、オタクやメンヘラや信仰者でなくとも、常に何らかの物語の中でしかない。

今回のチェンソーマンを読み終えて、僕はなにやら心が軽くなり、元気が湧いてきた。

描かれているのは、身勝手に残酷で気まぐれに美しい、なんら粉飾されていない世界のありようでしかない。
それがよかった。「世界は残酷だ」と言うことからも、「世界は美しい」と言うことからも、解放されたような気分だった。

ひょっとして、これがアートとか言うものなのか、と僕は思った。
五感への働きかけを超えたクオリアで、人の心へ働きかけ、 解放し、エンパワーメントする。 これこそがアートなのではないか。
それだけがアートだとは言わないまでも、アートとして最上のものであることまでは、疑いないように思われる。

これを計算ずくやっているなら、ファンを通り越して信者になるしかないのだが、さすがにそこはまだ疑っている。
しかし、再現性の有無でいうならば、ここに至る「発展」は確かに見て取れるのだ。
充分な準備期間さえ与えれば、この程度は何度でもできてしまうのではないか──そんな恐ろしさを感じる。
そしてまた、タツキの野郎が全く同じことを繰り返す類いの作家ではないことは、もはや明らかだろう。

走り続けるチェンソーは、一体どこまで突き抜けてしまうのだろうか。