『僕は友達が少ない』にはヒル魔が足りない

タイトルは『ぼくたちには野菜が足りない』パロになってしまった。
相変わらず続きを読まないまま自分のはがない感想を読み返して、はがないに何が足りないかわかった気がした。ヒル魔だ。
物語には、特定の「人格パターン」をテーマとして展開する類型がある。こういった物語は「成長物語」とか呼ばれることも多い。例えば『魁!!男塾』。この物語においては、「男」という人格パターン、ないし人間のあり方、あるいは生き方がテーマとなっている。
そして、片側には、「男」という様式を体現する人物たちがいる。剣桃太郎江田島平八は、彼ら自身が「男」の象徴であり、物語のテーマであり、作品の理想でもある。『男塾』における「男」とは、剣桃太郎江田島平八のような人格を指す。
一方で、極小路秀麻呂、あるいは男爵ディーノのような人物は、「男」と同一視されることはない。ある基準においては、剣らと正反対のキャラクターですらある。しかし、彼らは「男」へと成長し、あるいは彼らの中に「男」性が発見される。
いわば、剣桃太郎が「男」のなんたるかを「説明」するキャラクターであるのに対し、極小路秀麻呂は自らが男たることを「証明」するキャラクターといえる。

フラットキャラクターというのは、おとぎ話から、子供番組、水戸黄門のような作品にまで登場する作中人物の造形のレベルのこと。
ガンダム30周年でなんか書こうと思ったらもう師走だよ フラットキャラクターは初期配置が大事

フラットキャラクターである剣、複雑な内面を持つ極小路、と乱雑にまとめることもできなくはない。こうした作品は、フラットキャラクターの明快な説得力と、複雑な内面を持つキャラクターの芳醇なストーリー性とを合わせ、作品に深みを持たせることに成功している。
同様の運用は『ダイの大冒険』にも見られる。もちろん、剣=ダイ、極小路=ポップである。そして、物語のテーマとなる人格パターン……「男」や「勇者」たることを「証明」し「発見」されるキャラクターのほうが、真の主人公と呼ばれたりする。
さらにいえば、フラットキャラクターが複雑な内面を顕にし、複雑な内面を持つキャラクターがフラットな価値観を見にまとうことによって、こうした作品は物語により以上の深みを持たせることができる。その好例が『アイシールド21』といえる。
物語のテーマとなる人格パターンは「アメリカンフットボールプレイヤー」、その象徴はヒル魔、そこに近付こうと葛藤する主人公がセナである。物語の流れは、当初セナが「ヒル魔性」を学び、身に付け、自らの裡にある「ヒル魔性」を発見することで進行する。
しかし、物語の中盤以降、成長したセナは「アメリカンフットボールプレイヤー」としての象徴に成り上がり、ヒル魔は秘めた「人間性」を暴露されてゆく。そして彼らが再び「雄/アメフトをする人間」という地点で交わるのが素晴らしいのだが、ここでは詳しく論じない。
こうした、特定の人格パターンをテーマとする物語においては、ニュートラルな立ち位置からパターン性を習得する/発見されるキャラクターが「主人公」となり、はじめからパターン性を身に付けたキャラクターがテーマの象徴や、成長の基準、主人公にとってのメンターとして機能する。
ちなみに、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』でヒル魔の役割を担ったのは、沙織・バジーナだろう。
沙織は、「オタク」という人格パターンの、悪い面も良い面も象徴している。京介は沙織を見てオタクを学び、沙織に導かれてオタクとして成長する。(桐乃は、京介に試練を課しはするものの、成長の手助けをすることはない。)
沙織の例を見てもわかる通り、『アイシールド21』でいうヒル魔は、文化系部活モノでいうと「部長」のポジションである。(というか、まあ、ヒル魔は部長みたいなもんだが。しかしスポーツ系部活モノの「部長」という類型はヒル魔とはちょっと違う)
で、『ラノベ部』を見ると、『男塾』や『アイシールド21』ほど明確ではないものの、文香・暦が主人公、その他の部員が概ねメンターとして機能している。ラノベ部の部員たちは、まあ、本読みの達人だといってよい。そういう意味では、『史上最強の弟子ケンイチ』みたいな作品である。
ここで重要なのは、龍之介がメンター側のキャラクターであることだろうか。彼は悩みもがきつつも、自らや文香が直面する問題に(暫定的ながら)回答を出すことができる人物である。龍之介のメンターとしての機能は、例の「儚くも永久のカナシ」で表現されている。
ところが、『はがない』だと、小鷹・夜空・星奈というメイン級キャラクターの全員が、「残念」性の象徴として機能しない人物である。と、言い切るとたぶん異論が出てくるが、ぼくはそう感じたし、そう感じたから特に1巻に疑義を呈するわけだったり。
まず、小鷹がそれほど「残念」でないことは論をまたない。彼に「友達が少ない」のは全く周囲の無理解の結果であって、自身の人格はむしろ真っ当な好青年だといえる。では、ヒロインはどうか。特に事実として「部長」である夜空は。
夜空は、友達を欲しているようでありながら、小鷹との恋愛のみに目的意識を向けているようにも見える。また、星奈との関係が、あまりに簡単に友達になりおおせている。人格が複雑すぎ、その裡に「残念」性を「発見」する必要がある、葛藤する主人公系キャラクターといえる。
星奈も、表面的にはリア充に見えて、内実が「残念」というキャラクターであり、「残念」性の象徴としては機能しない。幸村もわかりやすく「残念」な人物ではないし、隣人部の主要メンバーとは言いがたい。
純度100%「残念」な理科が登場する2巻まで、『はがない』のテーマ性を象徴するキャラクターが存在していない。作品が提示する「残念」像が不明であり、従って「主人公」たちに「残念」性を「発見」するシークェンスも駆動しない。
例えば、プラナリアの交尾に興奮するような明らかな「残念」性を持つ理科が示す好意を、全く気付かずにスルーする小鷹に、理科と同様の「残念」=「友達が少ない」=非コミュ性を見出すようなメカニズムは、1巻時点では全く機能していない。理科のポジションから言って、範囲も限定的になる。
3巻以降は読んでいないのだが、『はがない』の物語性は理科抜きに駆動できないのではないか。そして、理科が理科であるゆえに、小鷹・夜空・星奈の物語は、不器用なラヴストーリー以外のなにものかには成り得ないのではないか。
いくらなんでも、理科に与えられた権能で、ヒル魔や沙織の役割を果たすのは無理がある。理科って、隣人部員でない、局外的なポジションのほうがよかったような気も……。
全身これアメフトなアメフト協会会長がデビルバッツのヒラ部員だったら、バランスもへったくれもない、みたいな感じだ。構造的理科無双。それはそれで俺得なような気もするが。

僕は友達が少ない (MF文庫J)

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僕は友達が少ない 2 (MF文庫J)

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ここまでしか読んでない。

声に出して読みたいアイマスソング「shiny smile」を再評価してみよう

このところ、supercell飛蘭曲のカッ飛んだリリックを見るにつけ、「センス」とか「題材」以前の「スキル」としての作詞について検討したいと思っていたのだ。例えば大半がアレなアイマス曲リリックの中で「shiny smile」が光る理由とか。
「shiny smile」は、女の子の心情を歌った曲でありながら女の子女の子した単語が「リボン」くらいしかなく一般化してるところとか、前向きさを感じさせる単語選びもいいのだが、技術的に優れているのはイメージの飛躍だろう。
疾走感溢れる曲調に合わせて、フレーズ移行で小飛躍→セクション移行で大飛躍を繰り返し、リリックにも推進力を与えることに成功している。具体的に検討してみよう。
歌詞引用しまくるけどバンナム許してくれ!

お気に入りのリボン うまく結べなくて
何度も解いてやり直し

冒頭は、女の子らしい日常性に溢れた情景。ここでは非常に親密な距離感なのだが、次でイキナリ距離感が飛躍する。

夢ににてるよ 簡単じゃないんだ

ただしこの時点ではリスナーの距離はシンガーに近い。

妥協しない 追求したい
頑張るコト探して ねぇ 走るよ

Bメロ移行に伴い、再び女の子にフォーカスするが、Aメロの最初のフレーズと違って焦点は心情にある。また、立ち止まっていた女の子の心情を「前」に向けてサビを準備している。

君まで届きたい 裸足のままで
坂道続いても諦めたりしない
手に入れたいものを数え上げて
いつだってピカピカでいたい
私 shiny smile

サビで女の子の心情は一気に走り出す。メロとのスピード差による牽引感が心地良い。また、ここでは脚で走っていることに注意。

朝起きて寝るまで 宝箱を開けることの
「ホント!?」繰り返し
驚くばかり 平凡じゃないんだ

Aメロ2。抽象度が上がっており、前後半でギャップを生じにくい。また、1番で心情を前向きに切り替えたことで、日常が喜びに満ちたものに変わっている、というストーリーも見える。
一度上げたスピード感をあまり落とさず走りぬけようという意図が見て取れる。

制御効かない 冒険したい
傷つくコト避けたら ねぇ ダメだよ

Bメロ1は停滞から躍動への転換だったのが、Bメロでは躍動からのさらなる躍動を表現しようとしており、全体を通じた加速感が維持されていることに注意。

君へと届きたい!転びそうでも
ブレーキを我慢して石ころをかわして

全くワードとしては登場しないが、自転車で走る情景を表現している。サビ1の徒歩から自転車に変わったことで加速感を維持。また、サビ1で上りだった道が平坦/下りになっており、やはり上がったスピードを維持している。
さらには、サビ1に比べてイメージの具体度が上がっており、心情だけが先走っていた状態から、肉体が伴ってきていること、走る生き方を実践することで感じているスリルを表現しており、シンプルなフレーズながらストーリー性が高い。

泣きそうな思いを乗り越えたら

で希望に伴う痛み、

いつだってキラキラでいたい
私 shiny smile ずっと

繰り返しのフレーズに付け加えられた「ずっと」だけで、来たし方と行く先を繋げている。直前の「泣きそうな思い」が利いている。

君まで届きたい 裸足のままで
坂道続いても諦めたりしない
手に入れたいものを数え上げて
いつだってピカピカでいたい

大サビ前の小休止パート。サビ1のフレーズを繰り返すことで、走り続ける動機を確認している。溢れ出す思いが追加ワード「私」にガッツリ乗ってくる。

君へと届きたい!転びそうでも
ブレーキを我慢して石ころをかわして
泣きそうな思いを乗り越えたら
いつだってキラキラでいるよ
私 君と

大サビはサビ2の繰り返しフレーズで、全体の加速感をリピート。追加ワード「君と」で目標としていたカレに追いつけたことを表現している。

shiny smile shiny smile ふたり ずっと…

アウトロ。カレに追いつくための笑顔が恋人同士の笑顔になり、曲調と共に加速から巡航へ移行。痛みが癒されて永遠の愛を予感させて終わり、と。なんつーいい歌だ!
内容的には完全なる春香曲なんだけど、千早・律子入りのMASTER VERSIONのほうが共感の輪が広がる感じで素敵ですネ。
全体的に、イメージの飛躍を繰り返しつつ、直前のフレーズで次の飛躍を準備している段取りの良さが際立つ。リスナーを引っ張りまわしながらも、大サビでキッチリ復習させる詰めの正確さもポイント高い。
Bメロの"制御効かない"、サビ2の"ブレーキを我慢して石ころをかわして""泣きそうな思いを乗り越えたら"、大サビ前の"私"あたりが個人的ゾクゾクポイント。

装甲悪鬼でのパフォーマンスにも感嘆したけど、現在のなまにっくぁん(ウロブっつぁんに準ずる愛称)は参加したら「なまにく作品」と呼びうるような華があるよな。
でも、チャイカのデザインは、明らかにニトロじゃなくライアーのラインですよね。

棺姫のチャイカI (富士見ファンタジア文庫)

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水無月・アドルフ・ルックナーと因果悟が可愛い

シュピーゲルシリーズで可愛いのはなんつっても水無月。『救命戦士ナノセイバー』の因果悟をほんのり思い出す。盗聴はできても話しかけることはできない弱さ。「彼女」と自分は生きる世界が違うと諦めてる感じ。そして弱い人なりの生き方を確立してるせいでしっかりして見えちゃう感じ。
本当は一番助けが必要なのにな。なので友情テーマになるという。カップリングはストレートなんだけどどっか百合的な感覚があったことを覚えている。因果悟。
ってそういや悟の中の人女性説*1はあったのだった。それは悟×恵も仁×悟も萌え萌えになるので推奨したい読みだ。
それにしても、バーチャル3部作は変態すぎた……。俺の性癖が相当あれでゆがんだことは否定できない。萌えの語源(眉唾には思うが)に、げっ歯類人類に、因果悟だかんなー。一体なんの天才を育てるつもりだったのやら。
いやSFマインドも養われたと思うが。衝撃を熱に変換するバリア*2とか。

救命戦士ナノセイバー DVD-BOX

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過去の『ToHeart2 XRATED』姫百合姉妹シナリオ言及まとめ

ToHeart2 X-RATED:姫百合姉妹

(2006/6/3初出)
 ネットが繋がらない間エロゲがそれはそれははかどってあちこち手を出して、すでに真っ先に取り掛かったロストチャイルドの印象がぶっ飛んでるくらいなんだけど、その機会にTH2もとうとうプレイした。予想よりはるかに面白かったんだけど、シナリオ的には姫百合姉妹のルートが一番興味深かった。
 俺は、このシナリオは非常に重要な問題提起を含んでいると思う。
 それは、「愛は人を幸せにしない」ということだ。
 そして、「理解が人を幸せにする」ということだ。
 珊瑚と瑠璃はお互いをこの上なく愛しているが、すきすきすきーだが、それだけでは幸せになれない。イルファがいかに瑠璃を愛していても瑠璃を幸せにはできない。
 そこには愛がある。愛しかない。珊瑚も瑠璃もイルファも、想う相手が本当に望むものを「理解」していない。イルファに至っては自らの望みすら欺瞞している。ゆえに、貴明が介入しなければ、彼女たちは「正解」に辿り着けない。
 わりと察しのいい雄二が、姉妹と貴明の関係の持つ危うさを何も感じていないのが興味深い。
 雄二は、3人の作る場のありようまでは理解した。でもそれは愛なんだ。
 珊瑚と瑠璃が、お互いに愛し合っていながら理解し合っていないこと、貴明がかすかに気付きかけていたその謎に、雄二は丸っきり気付いていなかった。姫百合ルートにおける物語上の焦点は、主人公がヒロインの愛を得ることじゃないんだ。
 これが、エロゲーにおいては極めて重大な問題なんだよね。
 エロゲーを要素に分解するとエロ+ゲームとなる。この二大要素を効率よく活かす方法としては「エロをゲームの報酬にする」というのものがあり、この理論は何らかの形で多くのエロゲーに適用されている。同時に、シナリオも大抵はそれを前提として書かれる。
 「エロをゲームの報酬にする」理論の典型的な実装が、好感度システムとなる。そして、出会った二人が愛を高め合いついには結ばれるというのがエロゲーシナリオのある種の類型となる。
 が、しかし。このようなエロゲーを、ポルノとしてでなく、純粋にゲームとして、AVGとして見た場合、それは「正しい選択肢を選ぶことで新たなルートをオープンさせる」ゲームとして解釈される。これはミステリゲームによく似ている。いや、ていうか、エロ抜きギャル抜きのAVGって大方ミステリゲームじゃん。推理ゲームに限らずさ。それは、選択肢とフラグ立てというAVGの基本システムがミステリと極めて高い親和性を持つゆえだろう。
 つまり。AVGとは「謎」のゲームである。あるいはそれを「可能性」とも呼ぶ。選択肢とフラグ立てというAVGの根本システムが謎を孕み、可能性を秘める。大仰に言えば、未知の事柄への探求こそがエロゲを含めたAVGの根本的モチベーションだといえる。
 それを物語に還元すれば、あるいは殺人事件の謎となり、あるいは色んな女の子とイチャイチャできる可能性となるわけ。
 エロゲーシナリオは基本的に「色んな女の子とイチャイチャ」、もしくは「色んなプレイでエロエロ」理論を採用して、ゲームシステムとの整合を図っている。そこにミステリゲームの様式を応用したのが「ヒロインのトラウマ解消」だといえる。トラウマネタには色んな意味でエロゲーシナリオにおいて有効なんだけど、「ヒロイン攻略」と「謎解き」を両立する方法論として確立した面はあるんじゃなかろうか。
 ところが、従来のトラウマ解消ゲームは、いざそのトラウマを解消する段になると、えいえんだの何だのを持ち出してこざるを得なかった。別に安易なオカルト展開を批判したいんじゃなくて、「謎解き」そのものにカタルシスを持ってこられないのが問題なわけ。
 例えばKanon真琴ルートでは、真琴の正体が分かったところで一つカタルシスがあるのに、その後真琴の衰弱というもう一つのヤマ場を用意しなければならなかった。「えっちなゲーム」としては、苦労して真琴の正体を解き明かしたご褒美にエロエロなことをしたいところだ。美汐なんかとうだうだやってる場合じゃない……もちろん、読み物としてはそこからが面白いところなんだけれども。
 このゲーム上/物語上のヤマ場のズレは、リーフビジュアルノベル3部作、及びKey初期3作品に共通の欠点だと思う。これもまた葉鍵の呪いの一部。
 ちなみに、もうちょっとエロゲ的にスマートな解答がツンデレで、これはヒロインの本来の性格(デレ)が「謎」に相当する。この場合、本来の性格という「新情報」+デレデレエッチという「ご褒美」=エロゲー的カタルシス、さらにはヒロインの外面を突破した物語的カタルシスの合一を得ることができる。
 ……しかしね、これは俺も姫百合ルートをクリアするまであまり意識してなかった不満なんだけれども、そういう話だと、結局二人は愛し合ったので幸せになれましたって結論になるじゃん。なるよね? でも本当はそうじゃなくて、主人公がヒロインの本当の、あるべき姿を見出せたことが一番重要なことじゃないですか。例えば主人公がマゾ野郎で、ツンケンした女の子が大好きだったらどうなのか。愛し合うことができたとして、それは幸せなのか。女の子は愛してもらうより、自分のあるべき姿を知って欲しかった…教えて欲しかった、はずだ。もっと言えば、ゲーム的なカタルシスも、ヒロインの本来の姿を「発見」することにあるはず。そこが混同されている。つまり、
「愛は人を幸せにしない」のであり、
「理解が人を幸せにする」ということ。
 姫百合ルートの問題意識の鋭さは、愛し合うことが幸せに繋がらない状況をあえて作り出したところにある。結末に繋がる決定的なポイントは、誰かが誰かを愛することではなく、全員のあるべき姿を見出したことだ。愛ではなく、理解によってトラウマを解消してみせたわけだ。ツンデレ瑠璃を惚れさせることが問題の解決ではないんである。
 この理解>愛という思想は、珊瑚が「謎解き」に成功した貴明をレベル3に格上げしていることからも読み取れる。珊瑚にとっては、貴明が珊瑚をすきすきすきーなことより、もちろん瑠璃が貴明をすきすきすきーなことよりも、貴明がみんなで幸せになれる解決法を見出したことのほうが重要なわけだ。
 ヒロインが結局3人にもなっていることにも意味はある。要するに、一人に捧げる愛なんぞクソの役にも立たんという主張に他ならない。そしてそれは、ヒロインの心の問題を描こうとするあまり、主人公の幸せを蔑ろにしてきたエロゲーへのアンチテーゼでもある。珊瑚を想うあまり自らを空虚にした瑠璃の姿は強烈な皮肉だ。つまるところ「幸せになるしかないよ、タカくん」なわけで、みんなの望みの赴くままに辿り着いた結末が、
 4P!!
 最ッ高ーーーーーーーーーーーーー!!!! 俺ぁわりとマジで感動したね! エロゲだよ! これ以上ないほどエロゲだよぅ! 最初からこのオチを念頭に置いて全年齢版作ったとしか思えねえよ! 珊瑚のマッパもあったし!
 ま、欲を言えば、クライマックスあたりでもう一つくらい選択肢を用意して、ゲーム上の解決と物語上の解決の完全な合一を図って欲しかったのではあるけど。ぶっちゃけ最後のグダグダが長すぎる。そうだな、「瑠璃を追いかける/イルファを止めさせる」とかがいいだろうか。イルファの告白が最後のビックリ新情報だし、その前に関門が欲しい、かも。
 あとミルファのエロシーンが欲しいです。

ToHeart2 X-RATED:姫百合姉妹2―三宅章介と恋愛ゲー

(2006/6/4初出)
 俺は姫百合ルートをプレイしながら『天使のいない12月』を思い出していた。これは天いなの続きだなーと思った。やっぱりシナリオ担当は三宅氏だった。
 思えば、『こみっくパーティー』『天使のいない12月』『ToHeart2』と、三宅氏は一貫して「恋愛」というものに特別の価値を置いてこなかったようにも思える。こみパのゲームシステムはナンパゲーのそれであり、要するに女の子を引っ掛けるゲームなんだけど[1]、シナリオ内容を見ると色恋よりも夢を追うことが物語の軸になっている。
 それゆえに、ゲーム上の目標である女の子と物語上の目標である夢を合一させるため、こみパのヒロインは「夢の具現」でなければならなかった。初めてプレイしてから時間が経つにつれて詠美シナリオがお気に入りになってきたんだけれども、あれは主人公とヒロインの夢、さらにはエロゲー的トラウマ解消劇がガッチリ噛み合ってるところが素晴らしいね。その他のシナリオも、多くは恋愛より夢の成就に物語の焦点を合わせているようではある。でなければ、和樹は瑞希のために筆を折るべきだったね。もっとも、和樹と瑞希の恋そのものが夢として描かれるのがあのシナリオの良いところだと思うけど。
 こみパは恋愛に代わり得る「夢」というオルタナティブな価値観を提示したが、天いなでは恋愛という価値観が徹底的に否定される。シナリオ構造やゲームシステムなどの外装は典型的な恋愛ゲームを踏襲しつつ、本来ならゲームクリア報酬であり、愛の結晶であるはずのエロシーンがこれでもかというほど軽薄に、無意味に挿入される。製作者自ら萌えゲーではない、恋愛物語ではないと強調されたストーリーからは徹底して主人公とヒロインの恋愛が排除されている。
 そして、これは姫百合ルートをプレイして気付いたことなんだけど、俺が天いなに感じていたある種の潔さはまさにそこなんだよね。前回の記事でエロゲーにおける「謎解き」について述べた。主人公はヒロインへの愛ゆえに謎解きを志向し、それによって物語の根本的価値観が愛なのだと誤解されているという話。主人公がヒロインLOVEの一点張りで行動し、結局ヒロインのトラウマにロクに踏み込めていない『Fate/stay night』桜ルートなんかいい例というか悪い例だ。まああれはそういう話なんだけど。
 しかし、天いなは一切愛を語らない。「俺はお前を愛してないし理解もできん」というのはとんでもねーちゃぶ台返しかつ思考停止なんだけど、少なくとも「俺はお前を愛しているからお前のことがわかる」というエロゲー的命題よりはある意味で誠実ではあった。そして、お互い相手のことはわからん、というのを前提にした上で薄くかすかな共感を描いたストーリーが俺の胸にクリティカルヒットした。人は愛し合えなくても理解し合えるし、理解し合えなくても依存し合うことはできるのだった。
 と、ここまでが姫百合ルートへの前振りだったのだね。恋愛という価値観の相対化・全否定を経て、ついに理解という価値観と「謎解き」のカタルシスを高く謳い上げることができたわけだ。天いなのエロシーンで恋愛ゲームの規範(コード)を無視しまくったムチャクチャをやったおかげで、4Pへの倫理的ハードルが下がっていたような気もするし。
 とまれ、一見自明のような価値観を疑ってみることも大事なのだと思うことです。なんせLeafが4Pに辿り着いたわけなので。