若気の至り、大人の覚悟〜『逃げ上手の若君』第129話「斯波家長1337」

神回感想シリーズ。ネタバレ全開なので単行本派は自衛よろしゅう。 

戦争に生きた人間は不幸なのか? 早死にした人間は不幸なのか? 

僕は今だ 十七だ

このパンチラインは、それに真っ向から否と答えている。左様、どんな時代にも世界にも、そこにしかない幸せがあるだろう。平和な世界で ゆるやかに詰んでいる 人生を送る者からすれば、「太く短く」生命を燃やし尽くした者が眩しくも映る。 

しかしそれは、平和な時代を生きたことも、大人になったこともない者の主張に過ぎない。 
今回の逃げ若の裏テーマ、そして真のテーマは恐らくこれだ。 

現パロ孫二郎は本当に七十年腐ったままだったのか? 平穏の中でなすべきことを見つけられなかったのか? 
それは誰にもわからない。もっと先の未来を、彼は見ようとしなかったのだから。 
我々読者もまた、彼が見付けたかもしれない生きがいを知ることはできない。それが死だ。 

未来を達観しすぎるのがお前の悪癖だ 17歳などまだ何者でもないんだぞ 
才能があり仲間思いで責任感がある お前は必ず生きがいを見つけるさ

渋川先輩の言葉は、およそ大抵の年寄りが、およそ大抵の若者にかけたいと願う言葉だ。生き急ぐな、未来を見ろ、お前のすべきことはもっと沢山あるのだ、と。 
もちろん、かつて若者だったことを忘れていない年寄りなら、そんな言葉が若者に響かないこともわかっている。いや、響くべきでないことすら。

我らは十や二十歳の若者だぞ 目の前に仇がいるのなら感情のままに全力で戦え! 
 
その内に滾る獣の炎を見せてみよ! 
(第127話「未来1337」北畠顕家

「獣の炎」を見せることなく、 小賢しく陰湿で爺臭い 生き方しかできない者などに、拓ける未来があるだろうか。 
なにかしら一端の者になりたいのなら、若者は愚かでなければならない。くだらないことに命を懸けなければならない。少なくとも、大抵の年寄りはそういう若者に好意を抱くものだ。 

しかし、愚かゆえに若者は長じることなく死んでいく。 
まあ現代日本であれば、死ぬような馬鹿というのは、主に獣の炎とかそういう方面ではない馬鹿なのだけど、そこそこ人生めちゃくちゃになったり世の中に絶望したりする程度の馬鹿は普通に起こり得る。ニュースで見たことだってあるはずだ。 

そういう愚かさから若者を守り、もって若者の愚かさを守るのが、本来大人の役割ではないのか。松井優征の真意は、そういうことではないのか?

作中、幼少期(はまだ続いているとすれば第一部とかいってもいいが)の時行は、諏訪頼重という「父」に庇護されていた。その手元を離れ、冒険に出る時でさえ、(まあおおよそは)未来視によって文字通り「見守られていた」。 
「父」の死によって、時行は早すぎる自立を果たすことになるが、頼重の庇護の元で与えられた経験と自信は、はっきりと時行を支えている。
その正しい離別は、泰家叔父によって守られた。正宗からの援軍も駆け付けた。親世代というには若すぎるとはいえ、吹雪という「師」から授かった技で苦境を切り抜けた。 
そして、露骨に時行を試し、振り回しながらも、それなりに面倒を見ようとする顕家という「兄」がいる。

翻って、家長には導き手となる大人がいたか。あの神懸かりだか妖怪だかは論外として、「直義先生」は家長にとっての庇護者たりえたか。 
復讐の野心を燃やしながらも、関東足利一門という「家」の都合を最優先してしまう家長は、間違いなく立派ではあるが、同時にヤングケアラーめいている。 
家長が「家を守る使命」から解放されたのは、自ら死を選び、敵である顕家に発破をかけられてようやくのことだ。 
時行の背負う北条と、家長の背負う関東足利。少なくとも当人にとっては、関東足利のほうが枷として、重い。家長には庇護された自由が、逃げ上手の精神がない。

現パロパートのしょっぱな、女子生徒のバッグに殺せんせーのストラップがある。これはただのお遊びだろうか。僕はそうは思わない。 
家長には殺せんせーがいなかった。だから彼は死んだのだ。

斯波家長十七歳の死に敬意を表することと、その死を惜しむことは矛盾しない。 
彼は死ぬべきではなかった。大人はそう言うべきだと、松井優征は考えているように思う。  
 
 
 
 
 
それはそれとして、仲間の敵討ちに来てる家長を足利兵を利用した技で討ち取るの鬼か? いや仏か。稚児ムーヴから入って泣かせに来るんじゃない情緒こわれる

追記:大人の覚悟

家長に与えられるべきだった(と僕が考える)「大人」については、おおよそ『暗殺教室』を参照していただければよいと思うのだが、もっとピンポイントにわかりやすい例があるのを思い出して悔しいので追記する。

2.5次元の誘惑』第35話である。(単行本5巻収録)初回無料のジャンプラ連載なのであらすじとかは省く。

この「経験する必要のない失敗」は、平和な世における「死」に近いものといっていいだろう。
もしこの時、エロコスプレ女であることをぶちまけていたら。リリサはコスプレへの情熱を保ち続けられただろうか。レイヤーとしてのリリサは、死んでいたのではないだろうか。

ちょうど直近の展開とも繋がるが、他者の悪意や周囲の目によって、心ならずもコスプレをやめた、あるいはやめかけた人物が、にごリリには一人ならず登場する。
コスプレを続けていた方が幸せだったとは限らない。続ける自由があればやめる自由もある。情熱の代わりに背負える責任もある。『まゆら様』が、『まゆり先生』になったように。
そうやって人間は大人になる。そうやって成ったものを大人という。だから大人は、「死」のリスクがどこに潜んでいるか、子供よりはよく知っている。

こと逃げ若頼重についていえば、未来視とは経験の謂であるのかもしれない。
「こういうことをしたら、まあだいたいこのくらいは危ない」という感覚。プロセスが全部読めるわけでも、「ここまでは安全」というラインが見えるわけでもない。
愛し子を失うリスク。そして、角を矯めて牛を殺すリスク。双方を見極めて子供を導くのが、大人の覚悟というものだろう。