大高忍『マギ』第74夜「崇高な何か」が傑作すぎる件:イノセンスと代償行為

今週の『マギ』があまりにも素晴らしかったので布教エントリをしたためんとする。単行本派は回れ右推奨。
さて、アリババが「王」になったりアラジンが覚醒したりマギバトルが始まったりカシムが異形化したりとこのところ急展開だった本作。無駄に上の方にネタバレラッシュ。終わっちゃうのかしらん、という雰囲気を漂わせつつシリーズ中でも白眉のエピソードを提示してきております。
そもそも、理由あって貧民街に生きる妾腹の王子・アリババが、人生の埋め合わせを求めるかのように、財宝眠る迷宮攻略に乗り出すのが本作のスタート地点であります。欠けたる者であるがゆえに野心を抱き、より大きな「何か」を得ようと奮闘する――本作は、「代償行為」をひとつの基盤とする、そう申し上げてよろしいでしょう。
しかしアリババは、命賭けで得た山なす財宝を、人々に分け与えて失ってしまいます。かれの真の願いは、「不公平を糺すこと」であり、財宝はその代償にすぎない。それを、アリババはアラジン(とモルジアナ)との出会いを通じて悟ったのです。
「不公平を糺す」というアリババの願いは、自らの生い立ちに強烈にモティベートされています。満ち足り、飾り立てられた王宮と、打ち捨てられ、奪い尽くされた貧民街の両方を知るアリババですが、その原風景は、かれの前半生における「はじまりとおわり」である貧民街にあります。ゆえに押しつけられた貧しさを許せず、自らが奪う側であることも許せなかった、ここにかれの「飾らない無垢な想い」=イノセンスがあります。イノセントなままでいられなかった人間が、代償行為を通じて「何か」を得ようとあがき、それを乗り越えてイノセンスを取り戻すことが、『マギ』の大きな物語的運動のひとつといえます。
また、本作は「魔法使い」に導かれた「英雄」が、試練を乗り越え「王」となる、という神話的モティーフを、設定に取り込んでいます。「王となる者」であるアリババは、迷宮攻略という最初の試練を乗り越え、王道の端緒についた後も、いくつもの試練を乗り越えなければなりません。それは、かれが自らのイノセンスに真に向き合ってゆく過程ともいえます。
最初の冒険を終えたアリババは、自らの真の願いを取り戻し、故郷を不公平から救うべく帰還を果たすのですが、ここで再会したかつての親友・カシムが、かれに更なる試練をもたらします。
アリババとともに貧民街に生き、しかしアリババと異なり根っからの貧民であるカシムは、金持ちから財宝を奪う盗賊の頭領に収まっていました。金持ちから奪い、貧民に与える、義賊的行為を完全には否定できないアリババは、カシムの誘いを断れずに盗賊に与してしまいます。しかし、これが明らかな代償行為であることは言うまでもありません。
で、いろいろあってアリババは身分制度の撤廃を宣言し、再び自らのイノセンスを取り戻したかに見えました。しかし、いろんなややこしい奴が登場し、カシムは憎しみに囚われて暴走してしまいます。ここまでが前置き。ここからが今週の話。
カシムは、なぜ「身分制度の撤廃」という答えに満足できなかったのか。それは、アリババへのコンプレックスに由来します。カシムにとって、アリババは心を許し合った親友であり、厳しい環境に立ち向かう相棒であり、傷を舐め合う同類でもあったはずでした。しかし、似たような境遇にあっても、アリババはカシムのようにただ周囲を憎むだけでなく、人を愛し、持てるものを分け与え、前向きに向上を目指す「まっとうな心根」を持ち合わせていました。そして、アリババにそれを与えた「優しい母親」は自分にはおらず、「クソみたいな父親」があったのみ。そして、アリババは王宮に拾われて去ってゆきました。同類であるはずのアリババが、自分とは決定的に「違う」人間であることに、カシムは打ちのめされます。
「自分はアリババにはなれない」という絶望が、カシムを過激な代償行為に走らせていたのです。それは、身分制度がなくなろうが、貧困がなくなろうが、変わることのない事実です。そして、血によって不公平を購おうとしていた自分に対し、誰も殺さず、誰からも奪わず、ただ権利と自由を「分け与えた」アリババの行動に、むしろカシムは、アリババとの「違い」をまざまざと見せ付けられることになり、「アリババそのもの」になりたいという叶えられることのない「願い」によって、いっそう激甚な代償行為に身を任せてしまいます。
ここに、未だアリババが目を背け続けてきたイノセンスがありました。誰もが、互いに違う個人であること。ゆえにわかりあえないこと。カシムとの関係によって烙印されたその真実が、アリババの根本であり、社会的な「不公平を糺す」ことすらも、「互いが異なる個人である」というイノセンスから逃れるための代償行為にすぎなかったということです。*1
アリババは、「互いが異なる個人である」ことを、「悲しい」と表現します。これは、決して変えられない真実であり、解決不可能な問題であり、叶えられることのない「願い」であることを受け入れた、究極的にイノセントな心的態度です。それは「悲しい」、ゆえに、せめてともに幸せに生きるにはどうすればよいのかを、アリババは考えるのです。これは、代償を求めず、イノセンスを出発点に置くがゆえに、根本的な「悲しみ」を癒す唯一の方法であるといえます。
アリババの「悲しみ」によって、カシムもまた自らのイノセンス=「悲しみ」を取り戻します。これは、互いに異なる個人同士に共感をもたらし、代償行為の無限連鎖から解放されるための唯一の手段です。
問題が解決可能である限り、建設的な行動によって個人の不幸を救済することは可能です。シンドバットは、そうした理路によってすべての個人を救済しようとしたといえるでしょう。しかし、問題が解決不可能である場合、そこから逃れようとする運動は代償行為にしかならず、救済から遠ざかるばかりです。叶えられない「願い」を抱き続けるのではなく、ただ「悲しみ」を悲しむことだけが、個人のイノセンスを救済することにつながるのです。
設定面から見ると、王の資格者はマギに「ジンの金属器」を与えられ、「ルフ」より生じる「魔力(マゴイ)」をあやつるわけですが、これを必要としない者こそが真に「王となる者」であるといえそうです。
「ジンの金属器」は「願い」を叶える「アラジンのランプ」を原型としており、人の魂やイノセントな精神と同一視される「ルフ」を、物理的な効力を持つ「魔力(マゴイ)」に変換します。「マギ」のもちいる魔法も同様ですが、これは代償行為の象徴といえます。
代償を求める欠落こそが王の資格者のモティベーションであり、アリババの試練もまた代償行為から出発しています。そして、代償=財宝=「ジンの金属器」=「魔力(マゴイ)」なくして試練を乗り越え、実際的な達成を得ることはできなかったのですが、そこに囚われ続ける限り「悲しみ」と向き合うことはできません。「互いに異なる個人である」というアリババの「悲しみ」は、個人と個人の調停者である(象徴的な)「王」たる、正しい資質といえます。
ちなみに、女性に対しておっぱいしか求めていないアラジンと、強烈な自我(と筋肉)を持つモルジアナに微妙にフラグを立てているアリババの性癖の違いは、こうした精神性を根拠とすると考えられます。「マギ」であるアラジンが見据えているのは「ルフ」の流れであり、世界全体の大きな運動なのですが、「王となる者」であるアリババは個人の「悲しみ」を出発点としており、個の総体として世界を捉えているからです。アリババにとって貧民は「カシムたち」であり、奴隷は「モルジアナたち」ですが、アラジンにとってはみんなまとめて「人間」です。
アリババにとってアラジンは、カシムやモルジアナ以上に「互いに異なる」だけの「個人」にとどまるのか、それとももはや個人としての関係を築き得ない象徴的存在になってしまうのか、二人の友情の行方も注目されます。また、「マギ」として覚醒してしまったアラジンは、ジュダルや悪しき魔力(マゴイ)の使い手たちを、同じにして相違なる「人間」として捉えることができるのか、この点が『マギ』の文学的評価を左右しそうです。

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

マギ 3 (少年サンデーコミックス)

マギ 3 (少年サンデーコミックス)

マギ 4 (少年サンデーコミックス)

マギ 4 (少年サンデーコミックス)

マギ 5 (少年サンデーコミックス)

マギ 5 (少年サンデーコミックス)

マギ 6 (少年サンデーコミックス)

マギ 6 (少年サンデーコミックス)

*1:アラビアンナイト』をモティーフに取っているわりには、恐ろしく近代的な問題意識ですが。