スパ4と百花繚乱で今墨がアツい。
今期アニメ、選ぶとすれば百花繚乱ですネ。ヘイユー、毎度スタッフの苦悩とヤケッパチが横溢するアニメを見て楽しいかい。
あえていえばギモ゛ヂイ゛イ゛。
あと、俺と友人の間では、七咲編の急降下っぷりへのがっかり感から、でb…りほっち編への期待がうなぎ登り鯉幟状態です。主にまなるっこ。

『AKB49』が面白い:非実在美少女

浦川みのりは非実在美少女である。
実在美少女であるユキ(『ゆびさきミルクティー』)との違い。
準にゃん(『はぴねす!』)にしてもユキにしても、あるいは絆(『プラナス・ガール』)にしても、「変身後」の姿には本人の欲望が含まれている。キレイになりたいという気持ち。しかし浦川みのりは違う。他の誰かを救うために始まり、他の誰かの想いに応えるために続け、んで来週どうなんのかなっていう。
完全なアニマであるわけですよ。浦川みのり。まさしく神。ところがそれは浦山実の実存と全く合致しない。完全な偶像。まさしくアイドル。そしたらもう閃光のようにまぶしく燃えて消え去るのが一番きれいなんだけど、「実」自身に「みのり」を演じるモティベーションが生まれるともっとキモくて楽しいことになる。

AKB49~恋愛禁止条例~(1) (講談社コミックス)

AKB49~恋愛禁止条例~(1) (講談社コミックス)

ゆびさきミルクティー 1 (ジェッツコミックス)

ゆびさきミルクティー 1 (ジェッツコミックス)

プラナス・ガール 1 (ガンガンコミックスJOKER)

プラナス・ガール 1 (ガンガンコミックスJOKER)

アニメにみる"メジャーとマイナーの中間を漂う浮遊感"

"メジャーとマイナーの中間を漂う浮遊感"なー。これは日本人の物語の好みにも通じるような気がする。クスリとする笑いと「かなしさ」の中間を浮遊する物語、ってのは日本では広く好まれてるんじゃないかな。それこそ、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』とか、そうだよ。
俺妹の原型を寅さんシリーズに見てみる、という珍説。男のしみったれたみっともなさと、心に沁みるやさしさ。これに現代的ポップ感とグルーヴ感を加えると俺妹になるみたいな。
「メジャー」と「マイナー」の両立がヒット作につながるのは世界共通だろうけど(「調性」の意味だけじゃなくね)、日本の作品ではあいまいに浮遊するところが、国外ではダイナミックに往復しがちな気がする。宇宙! 植民惑星! 星間戦争! ブシドー(笑)なスターウォーズとか。
ただ、現代においては、「メジャー」と「マイナー」の間がずーっとファジーだと、よほどのセンスがないとダサく感じられる気がする。印象としては「マイナー」側に吸収されがち。だから、部分的には「メジャー」一辺倒に振ったり、振り幅を大きくしてギャップを作ったりすべきなんじゃないか。
川原礫なんか、見事に楽しさとかなしさの入り交じった話を書く人で、めちゃくちゃ勝ち筋踏んでるんだけど、それだけに量産型J-POP的な印象がついてまわるのは避けがたい。あの絶妙のバランスを1ページたりとも踏み外さないまま走り切る技量はマジはんぱないんだけれども。
楽しさ比率の高いシーン、かなしさ比率の高いシーンを作るってだけじゃなく、楽しさとかなしさの距離感を動かすってことが重要なような気がしている。
たぶん川原氏もそれを意識して、スカーンとプラス方向に振りきれるシーンを入れているんだと思うけど、完璧に距離感を保ってかなしさが追随しているので、印象があんま変わんないって感覚。
そうか、アニメけいおんは、楽しさに完璧な距離感を保ったままノスタルジーが追随してくるようなアニメか……。同じような作品は一本もないのに、「最近の萌えアニメ」でひとくくりにしたくなるあの感覚。

アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 (電撃文庫)

アクセル・ワールド〈1〉黒雪姫の帰還 (電撃文庫)

さあ『デストロイ アンド レボリューション』について話す仕事を始めようか。

森恒二の漫画には、イケてない主人公と、彼の憧れとなるイケメンが登場する。物語の大きな流れは、イケてない主人公がイケメンに並び立つための何かを獲得することにある。
同時に、イケメンの側にも、イケてない主人公が共感できる傷を描く。イケてない主人公とイケメンは相互に接近し、最後にイケメンは、イケてない主人公に「生きるための答え」を求める。ここにおいて、イケてない主人公は、イケメンと友達になるために必要な、自分が提供できる何かを獲得する。
イケてない主人公がイケメンと友達になることができて、物語は完結する。これが、『ホーリーランド』の物語である。イケてない主人公が、より広い読者に有効となる「生きるための答え」を示すことが『自殺島』の眼目であったが、物語構造自体は恐らく同様であろう。
自殺島』の連載は順調であるが、森恒二はそこに『ホーリーランド』を超えられない虞を感じたかもしれない。『自殺島』のイケてない主人公が立派なサヴァイヴァーと化した段階で、森は新連載『デストロイ アンド レボリューション』を投入する。
デストロイ アンド レボリューション』の、過去二作との大きな違いは、イケてない主人公とイケメンが、最初から友達になっていることである。それは、イケてない主人公が、イケメンに提供できる、「生きるための答え」を最初から持っていることを意味する。
すなわち、破壊と革命であり、そのための力である。大人によってカタにはめられ、可能性を奪われた少年のための、暴力という神である。この「生きるための答え」は、『ホーリーランド』に対する、醜悪なセルフ・パロディといえる。
ホーリーランド』においては、「同志」であるマサキと、「友達」であるシンイチ・ショウゴの間には、一線が引かれていた。互いに「答え」を求めるユウとマサキの関係は、シンイチを中心とした「無償の友情」とは、色合いを異にするものといえる。
物語上の役割の違い。マサキは、シリーズ全体のテーマを背負い、大きな転換点となるエピソードを担う。一方、各エピソード毎の展開はシンイチ・ショウゴとの関係に負う面が大きく、概ね、彼ら二人に関する救出か復讐でエピソードが成立している。
ホーリーランド』の一里塚的エピソードといえば、ユウの狂気を顕にする暴走編(5-6巻)、「神」の喪失と復活を描くタカ編(8巻)、結末への布石となるヨシト編(11-13巻)、もがきから癒しへの転換を思わせる伊沢過去編(13巻)、そしてラストバトルであろうか。
これらエピソードの前後を、シンイチ・ショウゴ絡みのエピソードが埋める。シンイチ・ショウゴエピソードで得た「疑問」や、それに対する「答え」をマサキエピソードで示すことで、『ホーリーランド』の物語は進行する。
自殺島』では、「生きるための答え」の重み付けを、イケてない主人公とイケメンの間にある特殊な絆に頼らないために、ほぼ全編が、シンイチ・ショウゴエピソード相当の、イケてない人たちの苦悶と友情で構成している。これだと、場面場面は盛り上がるが、全体的な進行が見えにくい。
で、『デストロイ アンド レボリューション』だが、恐らく、ほとんどの尺が、マサキエピソード相当の、イケメンとの問答に費やされると思われる。めっちゃ打ち切りが怖いのだが、大ヒット作『ホーリーランド』の次回作を無事成功させたことで、自信を得たのだろうか。
デストロイ アンド レボリューション』では、イケてない主人公とイケメンが、ユウ・シンイチ・ショウゴのトリオのように、共に苦悶し、無償の友情を築くのではないか。第一話で、いきなりイケメンへのコンプレックスをさっくり描いてしまうあたり、森はすでにそれを乗り越えたように思える。
自殺島』でも、イケメンの傷をあっさり描いてしまったし。むしろ、イケてない主人公の成長度に、イケメンが匹敵していない。提供すべき「生きるための答え」を得るために、10巻以上も苦しみ続けるほどの存在感を発揮していない。
ではむしろ、互いに「生きるための答え」を得て、友達となったイケてない主人公とイケメンが、共に社会/世界に対していかに折り合っていくのか、それを描くのが『デストロイ アンド レボリューション』の眼目ではないか。
凶暴な男の「生きるための答え」と、社会/世界との折り合いを描く上で、カギになる存在はなにか? それは、女であるように思える。『ホーリーランド』においても、ユウの想い人であり、マサキの妹であるマイは、暴力を理解しなかった。
自殺島』の最近の展開でも、リアルな生に向き合い始めた男たちに、女が迷いと悩みを与えている。『自殺島』が、「現代の若者」全員への「生きるための答え」を示すことを眼目とするならば、当然そこには女も含まれていなければならない。
一方で、『デストロイ アンド レボリューション』で描かれようとしている生は、明らかに「男の世界」である。ならば、どうしても女には理解されずに残ってしまう「男の浪漫」と、女を含む社会/世界との折り合いが、作品のテーマになるのではないだろうか。
愛する女を殺す、という結末も含めて。

ホーリーランド (1) (Jets comics (846))

ホーリーランド (1) (Jets comics (846))

自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス)

自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス)

理想のリョナゲーの話とかする?〜ゲームにおける体験と記憶〜

アレですよ、そのー、ワッフル買いに行くための外出着になりながら書くんですけど、ゲームってエクスペリエンスじゃないですか。ユーザの体験という切り口が非常に重要なコンテンツなんですけど。
エクスペリエンス・ポイント(EXP)すなわち経験値が蓄積されるよーに、体験ってのは記憶になるんですよね当然に。そこでエクスペリエンスを提供すべきゲームにはふたつの選択肢があることになります。新しいエクスペリエンスと、旧いエクスペリエンスです。
新しいエクスペリエンスを提供するゲームてのは、プレイヤーにとって未知の体験でなきゃいけないわけです。例えば伝説の聖剣を持って魔王を倒すとかですね、さすがに現代の日本人における経験率は性別年齢問わず0%だと思うんですけども。
高校生における女子の魔王討伐経験率が60%超えてたりするとそれはそれでステキな世界ではありますけどね。それはもうゲームじゃなくて小説の領域なんで。
ところがですね、それこそゲームにおける未知のエクスペリエンスってのは、小説や映画で知られたものだったりするわけなんですよね。FPSだのTPSだの、まーつまり3Dシューティングってだいったい映画の再現でしょう。
絶頂感がブッ続くとかね、未知のエクスペリエンス謳ってるタイトルであっても、その内容自体はプレイヤーの記憶にスデに存在することが期待されてたりするわけです。
逆に全く新規なエクスペリエンスを提供せんとするゲームってのは、だいたい音ゲーだったりしますけども、要するにエピソード的な記憶ではなく感覚記憶に訴えてるわけなんですよね。ホントーに脳内に全く存在しないエクスペリエンスに対しては、人間概ね拒否反応を示します。
まー、どんなコンテンツジャンルであれ、シリーズモノとかジャンルモノとかわかりやすく人気なわけでしてね、人間既知の記憶の追体験てのが好きなもんなんです。ゲームでもそれは変わりません。ただし、記憶の中のモノと全く同じであってはならない、ここが難しいところです。
ところが、ゲームにはその点、明確なアドヴァンテージがあります。他のコンテンツでは観測するしかない事象に、干渉できるってことです。インタラクティヴィティってヤツです。キャラゲーにおける「原作再現」に注目が集まるのはそのためなんですよね。ぼくらがそこに関わることができるんです。
従ってですね、ぼくらがリアル生活において現在進行形で行ってるコトを、まんまゲーム上で再現したって、全然おもんないというコトになります。RPGツクールを与えられた人間は、なぜかPCに買い物や会社通いをさせたがるんですが、ぼくはそのテの作品に魅力を感じたことはありません。
ぼくのなつやすみ』の人気は、逆説的にそーした夏休み体験がプレイヤーのリアルに与えられてないことを示してるってわけです。当たり前の分析ですけどね。
つまるとこ、プレイヤーに共有される非ゲームコンテンツにおける体験ってのは、ゲームのネタとしてオイシイ、かも、って話になります。そこで出てくるのが、リョナです。
ご幼少の砌に特撮やアニメに親しんだプレイヤーにとって、変身や合体メカと同様に、リョナも共有体験として成立します。そこに嗜癖を見出すかどーかは、個々の資質によって左右されますけども。
じゃあゲームにリョナ入れようって話になったときに、ストーリー的に組み込んでもあんまし意味はありません。非ゲーム的エクスペリエンスとしてのリョナは所与であることがこの場合前提でありますので、まあ、スグ飽きられると思われます。それこそエロゲーでやれって話になる。
本当にエロゲーでやってもいいんですけど(好きですけど)、それよりゲームのアドヴァンテージを活かすのであれば、リョナを狭義にゲーム的なエクスペリエンスとして提供したい(してほしい)ところです。つまり、リョナの達成/回避をゲーミングに組み込む=ゲームクリアに関連付けるわけです。
ここでいきなり究極の問題にぶつかってしまうわけですが、果たしてゲームの目的はリョナの達成/回避のいずれであるべきか? 基本的には回避であるべきでしょうね。なぜなら、リョナゲーの前提となる非ゲームエクスペリエンスにおいて、リョナは物語上回避すべきものであったからです。
よーするに、かつてぼくらはリョナられたくないスーパー戦隊の立場でリョナ快楽に震えていたのだから、リョナゲーとしてはそれを追体験できることを付加価値にしたいよねって話です。リョナリョナ言いまくりですね、もっと言います。
どっこい、リョナ回避がゲーム目的に繋がるよーなゲームを作るとして、リョナシーンの存在でアッピルしたいのに、リョナったら敗北なのはどーよって話になってきます。メタスラのことですけど。まあ、リョナ快楽と拮抗するストレスと突破快楽をリョナトラップに与える、てのが正着ぽいですね。
まずもって、かつての非ゲーム的リョナエクスペリエンスとの介入度のギャップがアッピルポイントになるわけなんで、狭義ゲーム性の高いジャンル……ぶっちゃけ、アクションゲームが第一候補にはなりますわね。
しかるに、リョナトラップに対するキモティー回避アクション、及び引っかかった時の「あ゛っっっ」ていうストレス感がカギを握ってきそーです。そこでぼくがポイントになるとじゃないかと思うのが、被ダメージ無効および行動拘束です。
よーするに、防護スーツと触手のコトなんですけど……。これは、そのまんま、リョナのポイントである「苦痛」と「拘束」に対応します。
PCが自在に動かせる状態を標準とした上で、リョナ状態=ミステイクに至るまでの間に安全弁を設けようということですね。セーフティゾーンの使い方が、そのまま攻略に直結するハズです。
PCに防護スーツ、エネミーに触手があることを想定すると、例えば、スーツが機能してればにゅるにゅるされても暴れて脱出できるけど、スーツダウン中だと被ダメ硬直が発生してぶちゅぶちゅされてしまう、といったゲーム上のシチュエーションが考えられます。
具体的には、被ダメによって段階的に鎧が脱げたりするとヨイんではないでしょーか。リョナ的なポイントは、見た目的なセクシー要素やダメージ耐性といった要素だけでなく、行動拘束耐性が絡んでくるところ、ってことで。鎧着てたら、電撃くらってもマヒしないとか。
純粋ダメージ攻撃は直接ミステイクに繋がらず、行動拘束からの即死攻撃がミステイク条件になる、ってデザインだとよさげじゃないでしょーか。つまり、触手にしばかれても脱げるだけだけど、巻き付かれると媚薬…じゃなくて、捕食されてDEADみたいな。
なぜ安全弁が必要かといえば、恐怖は安全とセットだからです。危険が恐怖なのではなく、安全を奪われることが恐怖なのです。
というような感じでポストBlankBloodのリョナアクションゲーを検討したいですね。

『BlankBlood』

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可能性を感じる。まだまだやれることがある
理不尽な強さを持つ触手に、女スペランカーがリョナられるゲームと、理不尽な強さを持つ美少女を、触手スペランカーが根性でリョナるゲームと、どっちが面白いのであろうか。
BlankBloodは秒殺が多いのが気になる。Pixivでリョナタグなんか見てもグロ方面に振る人が多いんだけど、原体験的にはやっぱ触手拘束なわけじゃないですか。苦痛とか屈辱の表現が重要なんであって、グロはあればあったでいい、というものでしかないとぼくは思う。
リョナ原体験としての特撮やアニメにおいて、死亡シーンがないことの解釈は難しいところではある。「いらない」のか「だからこそ死亡シーンが見たい」のか。そりゃま、マルチエンド(敗北ゲームオーバー等を含む広義)のゲームなら死亡エンドも入れましょーよって話ではあるけど
エロゲーのリョナシーンはあんま興奮しない。だいたい、シチュエーションが完全行動不能だから。ヒロインも敵を倒すつもりでいる戦闘の鬩ぎ合いの中で発生するのがリョナの美学であって、ポックル級だともう普通に陵辱しろよって話になりかねないし。