『とある魔術の禁書目録』でおれら非モテキモオタが感情移入すべきは半蔵なんだよ!

上条さんの説教は「お前だってリア充になりたかったんだろう! ちょっとくらい長い彼女いない歴で諦めてんじゃねえ!」なのでウザいという話。これが若干クリティカルじゃないのは、そげぶされるキャラが悟ってないリア充志望だから。
じゃあ、オレたちガチ非モテリア充二次ヲタ萌え豚の代表はいないのか。はまづらか、いや違う。一通か、いや惜しい。半蔵じゃねーのかなァ?
学園都市が科学サイド、十字教が魔術サイド、マギー審司が奇術サイドって話があったが、半蔵は忍術サイドじゃないですか。科学にも魔術にも属していない。オタク(忍者)であることを恥じているけど、エロゲーの女の子(郭ちゃん)は可愛い、っていう話じゃんSS2。
半蔵はスキルアウトという(恋愛)資本主義社会の最底辺で生きていて、そこでの地位もある。けれど、そこにすべてを捧げてはいないし、スキルアウトの真のボスになろうともしない。自分はそこに相応しくないと思ってる。なぜならそれは世を忍ぶ仮の姿だから。職業忍者ではなくても、半蔵は忍者である己から逃れられない。
そんな半蔵の希望ははまづらに託されてしまうのかしらん?というのがロシア編以降の注目ポイントになろうか。

『アマガミSS』七咲逢ED「恋はみずいろ」のキャラクターモノローグがおかしい

七咲はこわい。まともじゃない。
俺が覚えてないだけかと思って他のキャラのキャラクターモノローグ聴き直してみたらやっぱこんなじゃなかった。七咲どうした。
ええとまあ、ゆかな上手すぎって話ではあるんですけど。先輩が好きすぎて笑うしかない七咲。一声笑うたびに七咲の精神がはらはらと剥離していくような感覚。うわー怖い。恋するとおかしくなっちゃう女の子っているんだ……。

TVアニメ「アマガミSS」エンディングテーマ4 恋はみずいろ(特別盤)

TVアニメ「アマガミSS」エンディングテーマ4 恋はみずいろ(特別盤)

世界をサスペンドするメインヒロインが成立させる日常系ライトノベル

ToHeart』から『ONE』の間で決定的な日常の変容が起こった説とかあったなあ。俺の中で。簡単すぎに言うとダイナミックな日常からスタティックな日常への変化。THだとマルチルートだけがスタティックな日常でそれは例外だったんだけど、例外が常態になった。
そんなこんな話もしたのだが。→ギャルゲーとの違いから考えるエロゲーの「日常」 - 猫拳@はてな
ごめん俺まちがえた。THの日常はモラトリアム的心性からは微妙に外れるものだったね。志保で死んだプレイヤーってKeyを経由した後追い組が多かった気もする。偏見。
ストーリー上のポイントオブノーリターン、世界の破綻(=エロシーン)をサスペンドするための日常、というのがエロゲー的発想。
このエロゲー的スタティック日常をライトノベルに移植しようとする場合、エロゲーとは質的に異なる「ストーリーを進めようとする圧力」をいかに回避するかという問題が出てくる。そこで、世界の法則を担うメインヒロインが積極的に世界/ストーリーをサスペンドする必要がある。
というのは、ゲームにおいては、原理的に、フラグが立つ瞬間まで日常はスタティックたりうる。しかし小説は違う。また、ストーリーの開始から「オチ」までの間に取れる文章量が圧倒的に違う。紙媒体で出版されるライトノベルには1冊ごとのオチが必要になる。連載ベースの漫画とも事情が異なる。
俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、メインヒロインが攻略不可であることによって、その周囲でいかに激動が起ころうとストーリーはポイントオブノーリターンを迎えない。そこで終わらせ方が深刻な問題になってくるのだが、現状構造的に最も強固な日常系といえる。
僕は友達が少ない』だと、小鷹が夜空を思い出さないことによって世界がサスペンドされている。その間のストーリーの進捗を担うのが星奈。星奈が、夜空の凍結された進捗度に追いつくと何かが起こる。起こさざるを得なくなる。
そのようなメインヒロインが存在しなかった『ラノベ部』がいかに特殊で希少であるかという話で。

アンチ・パワーである上条当麻に寄り添う者

さあ、禁書目録について飲み屋テンションでしゃべるシーズンがやってまいりました!(訳:アニメ二期はじまりました)
上条さんが大きな権力(例えば国家)にケンカを売らないのは、そこに属している人を「悪」とは見做さないからでしょう。ローマ正教20億人全員をぶん殴って回ることはできない、ということを上条さんは言っている

ここでいう上条さんの天敵というのはつまり後方のアックアであり、そげぶしても倒せないアックアが18巻で上条さんと比肩する存在として語られることは戦闘能力特性においても担保されている。
『とある魔術の禁書目録』雑談。主にオルソラ - 猫拳@はてな

つまり17・18巻で明らかになったアックアの過去は、上条さんの行動と重ねあわせることが可能だということ。
上条さんは英雄でも勇者でもなく、傭兵なのだから。「助けを求める者と共に戦う」のが上条さんの本質。上条さんのこうした性質を非常によく理解しているのが御坂妹で、これは8巻で明らかになるところであります。
しかるに、上条さんが能動的に誰かと敵対したり、自分ひとりの力で敵を倒したりしないことは、それはもうそういう話だから仕様がない。
上条さんはアンチ・パワーなのだ。数値的「戦力」として数えられることはないし、「権力」も持ち得ない。それゆえに、環境を荒らすことなく力を持たない者の見方になれる、というのが上条さんのヒーロー性。
例えば、株式市場で巨大資本が動けば必ず環境に影響を与えるように、『禁書目録』では、パワーは時に持ち主の手足を縛るものとして描かれている。わかりやすいのは17・18巻のイギリス編。
また、アニメ2期のエピソードにも関わってくるが、政治的観点から、イギリス清教が学園都市に過剰な戦力を派遣することができない、という描写がしばしば見られる。そこで活躍するのが上条さんであるわけだ。
パワーとパワーの狭間で抑圧される弱者の、側にいて共に戦う者。このへんがはっきりしてないから2巻は微妙なのだが
地巫女・姫神秋沙が存在感ゼロな一方、オルソラが地味に人気あるのはそのへんの違い。オルソラは上条さんと「共に戦う者」だ。
で、インデックスと御坂美琴を巡るビミョーな問題てのがたちあらわれてくる。とりあえず、この二人をダブルヒロイン仕立てで見せているアニメ二期は大失敗と言わざるをえない。確かにヒロインNo.1と2ではあるが、立ち位置が違いすぎる。
インデックスと美琴はどちらも「お姫様」、上条さんによって戦いから引き離されているヒロインではあるが、その理由が違う。簡単にいうと、インデックスは上条さんの身内だが美琴は違うのだ。
インデックスには基本的に戦闘能力はない。ついでに収入もない。インデックスは上条さんにとっては「守るべき身内」だ。というか、記憶喪失の上条さんにとって、インデックス以外の「身内」は存在しないとすらいえる。インデックスを守ることだけは、傭兵としてではない、上条さん自身の戦いだ。
一方、美琴はケンカが強い。上条さんよりよっぽど強い。にもかかわらず上条さんが美琴を戦いから遠ざけるのは、「巻き込んではならない一般人」だからだ。もちろん、エツァリとの約束とかもあるのだけど。一方、「美琴の身内」を守る戦いにおいて、上条さんは美琴と「共に戦う」。(8巻)
美琴が一般人だってのはどういうことかというと、「平和な日常」みたいなものを信じているということ。実は、一方通行もそうなんだけど。オルソラとかは、日常は非日常と紙一重で、誰しも何かを守るために戦わなきゃいけない瞬間があることを知っている。
こういう人は、戦闘能力の有無にかかわらず「戦士」であり「英雄」である。ということが書かれているのがやっぱり17・18巻。イギリス編はオールスター全員集合なためもあって、『禁書目録』のテーマ性を如実に表したストーリーになっている。
上条さんはアンチパワーだから、いわゆる「上条勢力」を、「身内」とも「戦力」とも捉えていない。そのへんを「パワー」な人は理解できないというのが16巻。そういう「傭兵」に対する「お姫様」の微妙な感情は、美琴とヴィリアンで重ねあわせられるところ。
アックア自身、パワーとアンチパワーの狭間で葛藤してきたから、あえてパワーでもってアンチパワーたる上条さんに疑問を突きつけてる、みたいな読み方はできる。
禁書目録』の最近の展開は、ヒロインの状態で見ると、『フルメタル・パニック!』の終盤と似たような感じでなくもないのだけど。千鳥がああなるとイライラするけど、インなんとかさんインなんとかさんだから別にどうでもいいというのはいいのか悪いのか。
ともあれ、インデックスのヒロイン性については一応、最近の展開では担保されている。ずーっと難しい立場なのが美琴で、今までは上条さんに関わらせてもらえない悲しみ、というのを焦点に置いていた。しかしそれだとハイハイ報われないNEで終わっちゃうので、なんか考えないといけない。
逆にいうと現状の美琴は単なる報われない脇役なので、アニメ2期のダブルヒロイン扱いは持ち上げすぎだ。美琴全然活躍しねーじゃーか、という不当な批判が生まれる要因になりかねない。
上条さんの理解者って、科学サイドでは御坂妹、魔術サイドではオルソラだと思うんだけど、この二人はどちらも、自らが「弱者」でありながら、何かを守るために立ち上がろうとした人なんだよね。そういう人は上条さんの性質と親和性がある。
で、誰でも助ける上条さんに対して、自分の大切な女しか助けない一方通行とはまづらが「n人目の主人公」として浮上してくるのが19巻までで、彼らと同じ境地に立った上条さんまた同時にロシアに降り立ったりすると。
逆に、守るべき女ができた男は、色んなものを見捨てられなくなってゆくというのが20巻なんだなー。これを逆に読めば、上条さんにも元々誰か一人を愛する才能はあるということになるのかもしれない。
上条さんの心情は確かにわかりにくい。あれは、脇役の立場になって、「ありゃ一体何なンだァ……?」と一緒に首を捻らなきゃいけないようなキャラクターではある。そこで、インデックスがいまいち上条さんをわかってない感じがするのが、よくないのかもね。
そこで、ねーちんとかは上条さんを変に理想化してるからまたよくわかんなかったりする。重要な証言としてはSS1のオルソラと、16巻の美琴だろうなー。結局、つまんねえ結論に落ち着いてんなよってことなんだけど、彼自身が自分の人生をどうしたいのかはなおわかりにくい。
まあ結局、上条さんは相手の立場でしか話をしないんだな。お前の行動はお前の正義に反する、という。例外がテッラとフィアンマ。テッラの場合は会話が成立しないレベルの腐れ外道だったため。フィアンマの場合は上条さんがブチ切れてたため。

『ゼロの使い魔』はちっとも「最近のヌルい萌えラノベ」と呼ぶに相応しくない

王族には二種類ある。一番でかい貴族であるものと、唯一の支配者であるものだ。
概ねファンタジー作品における王族とは後者――唯一絶対の支配者だ。しかし、『ゼロの使い魔』は珍しい、貴族に近い王族イメージを採用している。王族と貴族は魔法使いである点で変わらないし、ルイズとアンリエッタは幼なじみである。
付け加えるなら、貴族のイメージも騎士+地方領主で、すくなくともオタク文化圏のファンタジー作品ではあまり見られないもの。魔法使いではない騎士も存在するからややこしいのだが。
こうした観点からは、いわゆる「ライトノベル」からは遠く離れた『ゼロの使い魔』像が見えてくる。
一般に、異世界召喚モノでは、主人公が召喚されるのは世界(国)を救うためだ。ところが、『ゼロの使い魔』では、主人公はルイズ個人の使い魔=騎士であって、「世界を救う勇者」ではない。こうした構図からは、古典的な冒険小説は生まれてこない。
才人は世界を救う勇者ではないから、才人に報奨を与えられるのもルイズただ一人だ。ヤマグチノボルは「主人公は登場人物のすべての女の子と恋をせねばならない」*1と力強く宣言しているが、どだい無理な話だ。
ルイズと競り合えそうな女の子は、「ルイズを守るために戦う才人」自体を客観視しつつ、そこに魅力を感じられる、タバサくらいしかいない。
したがって、才人とルイズの関係は、「ツルペタツンデレ萌え萌えキュン! ぺろぺろぺろぺろ! うわああああああああん!」というものではあり続けられない。いや、シリーズがこれほど長期化しなければルイズの本性は隠し通せたかもしれない。しかし、次第にルイズは濃厚な牝の性質を明らかにする。
13・14巻は、そうした『ゼロの使い魔』の兇暴な本性が顕になったエピソードであった。そこでルイズが見せる行動、ルイズの身に降りかかる出来事は、ライトノベルの枠を超えている。はっきりいうと、キモい。
だがそこがいい。
ルイズのように、頭の中が壊れたまま、シリーズのヒロインを勤め上げているキャラクターは、寡聞にして知らない。

*1:これは『ゼロの使い魔』10巻あとがき。むしろ、ハーレム路線に限界が見え始めたタイミングといっていいのかも。

「パンストのパンティはビッチ萌えキャラの急先鋒である」この命題は真か偽か?

  • 真:確かにあれは腐れビッチだ。最高だ。
  • 偽:確かにあれは腐れビッチだが、世界観自体が腐れているのでショックも何もない。つまらん。

グレンラガンかんなぎには縁がある。パンストはナギ様中古騒動に対するアンチテーゼではないか。という話をTwitterで見た(元発言行方不明)。しかしそうだとすれば、ずいぶんライトでポップでセーフティなやり口だ。(基本的には褒め言葉。)
かんなぎが炎上した理由はひとえにナギがパンティのようなキャラクターでないところにあり、ビッチ萌えの極北もまたパンティのようなキャラクターではないところに発生しうるのだ。
例えば、うえお久光『シフト』は処女厨的には発狂モノの描写が満載で、実にスリリングだ。

『けいおん!』にまつわる、身体性の描き方

アニメ『けいおん!(!)』のヴィジュアルは女子高生の身体を描こうとしている。しかしこれはストーリーテーマと齟齬を起こしている。このギャップが大ヒットの要因として挙げられるが、ぶっちゃけ気持ち悪い。悪く言うと盗撮映像みたい。
これを融合させることはできるのか?
日常において心を裏切る身体を描くことはできるはず。寝坊する体、決まらない髪型、増える体重、思い通りに動かないピック/スティック、ひとりでに作られる表情、勝手に喋る口、いざというとき竦む脚といった形で。こうした身体を乗りこなす/うまく付き合ってゆくことをストーリーに取り込めないか?
覚えられない頭、というのも心を裏切る身体のひとつではある。
主要キャラクターの、自らの身体性とのつきあい方、というテーマでくくって『けいおん!』をやることはできそうな気がする。唯の心より先行する身体、澪の身体に発する不安、律の鍛えられていない身体、紬の身体的接触の不足、梓の未熟な身体、とのつきあい方。
澪の不安は常に身体に拠っている。だから彼女は、いつも身体を鍛えている。楽器の練習をし、学問の勉強をしている。だけどどれだけ鍛えても不安から解放されない。だから手の届く距離で支えてくれる人を求める。するとその人から離れられない。澪には離れても切れない絆が必要だ。
少女漫画はしばしば身体と精神のつながり方が重要なテーマになる。そこで暴走するのが身体か精神かはけっこう大きなちがいである気がします。前者がツンデレ系、後者が恋する乙女系。身体と精神が堅固に結びついていると肝っ玉系になる。これで、少女漫画の主人公類型はカバーできるかな?
澪が不安から解放されることはない。誰かにいつでも支え続けてもらうこともできない。身体のつながりから切り離されたとき、不安を乗りこなすための勇気を、コミュニケーションを通じて得ることが澪のストーリーの目的。澪はわりとそのへん描けてるかな。…原作では。
ずーっと文句言ってた、『けいおん!!』OPサビで輪が内向きでなく外向きな理由が納得できた気がするぞ。これはライヴではない。あくまで部室の風景。しかし、そこに依拠しつつ、視線という身体性のつながりではなく、背中合わせの心のつながりで「外」に向き合っているわけだ。
それが本編中で表現されてるかっつーと全く不十分な気はするが。
唯の心と無関係に動く身体と放置すると「人気歌手の平沢唯さんがホテルの一室で死亡」になってしまうので、唯の心が成熟することでしだいに身体を乗りこなしてゆくシークェンスを描く必要がある。それは恐らく天才の喪失を意味するけれども。
律はもう単純に身体を鍛えることを覚えればいいので、マラソン大会エピソードとかいれたら一発じゃなかろうか。べつにそれで一流になる必要はない。
紬は友達と別れてもひとりで生きていけるけれども、身体的接触の不足によって積極性と自主性が欠如している。よって、そうした経験によってしだいに積極性と自主性を獲得していくことが望まれる。
梓は未熟な身体へのコンプレックスが問題なので(だからやはり鍛えている)、自らの未熟を認め人に頼ること、成長途上にある自己を肯定すること、他者とともにさらに成長していこうとする意志を持つことが望まれる。
そうか、『けいおん!』って基本的に現状肯定の物語だけど、紬だけは現状否定=私変わりたい系のキャラクターなのか。自己自身の肉体は完成して(しまって)いるし。紬は「よりよい人生」を目指す意志を見せる必要がある。
澪はダイエットするけど、紬はしないよね?
このへんの、各キャラクターに固有の物語性を踏まえつつ、個々のエピソードでは身体のディティール表現に注力し、終盤で「成長」を回収すれば、『けいおん!』で無理のないドラマが展開できたのではないか。
プレとアフターを貫く物語の主人公は唯、入学から卒業までの期間の主人公は澪、律は最強の脇役、紬は独自のストーリー性を持ってて、梓は二代目主人公、という感じにするのが良いと思う。
やはり澪にはHTTメインヴォーカルの地位を与えるべきだったのではないか。人前で歌うことが物語になるキャラクターは澪しかいない。澪は自らの身体にやどる才能を肯定することが望まれる。
完成された身体を持つ局外的ポジションの癒し系巨乳キャラ、でかぶるみゆきさんとムギですが、みゆきさんが積極性・自主性を身に付けて自己肯定できてるのに対し、ムギは人のためにしか動けず変わりたい願望を抱えている。すると、紬は専用エピソードで独自ストーリー展開する必要があるよね。
みゆきさんは眼が悪いのも含めて完成された身体だから、まさにミスパーフェクト、欠点も含めて矛盾のないキャラクターなんだよな。心と身体が完全に合致してる。また、あの良さがわかる人(こなた・みなみ)にはわかるってのが、見ていて非常に安心感がある。
こなたの人徳はかがみ・みゆきの良さがわかるってとこにあるといっていい。たぶん、つかさは誰が見ても可愛いんだと思う。つかさ一番モテる説はあるよね。

まとめたい。

ドラマ性の薄い日常系ストーリーは退屈。女の子の身体のディティールを表現するとエロくなるが、同時にのぞき見趣味的で不健全。そこで、女の子自身の、自らの身体との向き合い方をストーリー/ドラマに盛り込むことで、効果的にストーリーメイクできるのではないか。
つまり『ARIA』だ。灯里とアリスの関係は唯と梓のそれにも似ている。
女の子の身体/背景の異様に緊密な描き込み、主人公の心情を反映する美術、自らの身体とのつきあい方を盛り込んだストーリー、画面の緊張感に応えるダイナミックな日常、「同じウンディーネとしての他者」を通じて自己を問い直し成長するクライマックス。完璧な女子日常ドラマじゃん原作ARIA
退屈でない女子コミュニケーション的日常系ストーリーをやりたかったら、男との恋愛を排除するべきではないように思うな。主人公に男ができるかはともかく。アリシアさんの結婚こそ勇気ある作劇だろう。
アリシアさんの旦那はオレだからNTRじゃないし*1
灯里ってけっこうイイ体してるのに頭はコドモだし、それでいて感性はものすごく鋭いし、アンバランスな人物に見えて不安を催すんだけど、灯里ちゃんはあれで心配ないのよ、と言うのがアリシアさん。なぜなら街と人と支え合って安定しているからで、灯里の空虚は他者を受け入れるためにある。
一方暁さんはもみ子が頭空っぽだからってけっこう心配してる。それは誤解なんだけど、それを否定しないのが『ARIA』のいいところ。暁さんも灯里を支える系の一部だから。それは、ウンディーネでもネオ・ヴェネツィアの住民でもないけど、それを支えるサラマンダーって設定にも反映されてる。
ところがやっぱりタチの悪いやつは灯里と一体となったネオ・ヴェネツィアにもいて、悪い男にさらわれかけたところを助けてくれたのがスーパーイケメンであるケット・シーさんだったわけですが。
ネオ・ヴェネツィアの暗黒面とつながってるケット・シーさんだけは灯里の女子世界に取り込まれておらず、「私と違う」男として灯里に接している感があり、非常にドキドキする。まあ、ケット・シーさんは紳士なので踊り子には手を触れないが。
自分の小説にどう取り込むかを考えていたのに、結論:ARIAになってしまったのでやることがなくなった。

結論

けいおん!!』に満足できなかったら、かきふらい版か『ARIA』を読むべし。

ARIA(12) (BLADE COMICS)

ARIA(12) (BLADE COMICS)