『けいおん!』にまつわる、身体性の描き方

アニメ『けいおん!(!)』のヴィジュアルは女子高生の身体を描こうとしている。しかしこれはストーリーテーマと齟齬を起こしている。このギャップが大ヒットの要因として挙げられるが、ぶっちゃけ気持ち悪い。悪く言うと盗撮映像みたい。
これを融合させることはできるのか?
日常において心を裏切る身体を描くことはできるはず。寝坊する体、決まらない髪型、増える体重、思い通りに動かないピック/スティック、ひとりでに作られる表情、勝手に喋る口、いざというとき竦む脚といった形で。こうした身体を乗りこなす/うまく付き合ってゆくことをストーリーに取り込めないか?
覚えられない頭、というのも心を裏切る身体のひとつではある。
主要キャラクターの、自らの身体性とのつきあい方、というテーマでくくって『けいおん!』をやることはできそうな気がする。唯の心より先行する身体、澪の身体に発する不安、律の鍛えられていない身体、紬の身体的接触の不足、梓の未熟な身体、とのつきあい方。
澪の不安は常に身体に拠っている。だから彼女は、いつも身体を鍛えている。楽器の練習をし、学問の勉強をしている。だけどどれだけ鍛えても不安から解放されない。だから手の届く距離で支えてくれる人を求める。するとその人から離れられない。澪には離れても切れない絆が必要だ。
少女漫画はしばしば身体と精神のつながり方が重要なテーマになる。そこで暴走するのが身体か精神かはけっこう大きなちがいである気がします。前者がツンデレ系、後者が恋する乙女系。身体と精神が堅固に結びついていると肝っ玉系になる。これで、少女漫画の主人公類型はカバーできるかな?
澪が不安から解放されることはない。誰かにいつでも支え続けてもらうこともできない。身体のつながりから切り離されたとき、不安を乗りこなすための勇気を、コミュニケーションを通じて得ることが澪のストーリーの目的。澪はわりとそのへん描けてるかな。…原作では。
ずーっと文句言ってた、『けいおん!!』OPサビで輪が内向きでなく外向きな理由が納得できた気がするぞ。これはライヴではない。あくまで部室の風景。しかし、そこに依拠しつつ、視線という身体性のつながりではなく、背中合わせの心のつながりで「外」に向き合っているわけだ。
それが本編中で表現されてるかっつーと全く不十分な気はするが。
唯の心と無関係に動く身体と放置すると「人気歌手の平沢唯さんがホテルの一室で死亡」になってしまうので、唯の心が成熟することでしだいに身体を乗りこなしてゆくシークェンスを描く必要がある。それは恐らく天才の喪失を意味するけれども。
律はもう単純に身体を鍛えることを覚えればいいので、マラソン大会エピソードとかいれたら一発じゃなかろうか。べつにそれで一流になる必要はない。
紬は友達と別れてもひとりで生きていけるけれども、身体的接触の不足によって積極性と自主性が欠如している。よって、そうした経験によってしだいに積極性と自主性を獲得していくことが望まれる。
梓は未熟な身体へのコンプレックスが問題なので(だからやはり鍛えている)、自らの未熟を認め人に頼ること、成長途上にある自己を肯定すること、他者とともにさらに成長していこうとする意志を持つことが望まれる。
そうか、『けいおん!』って基本的に現状肯定の物語だけど、紬だけは現状否定=私変わりたい系のキャラクターなのか。自己自身の肉体は完成して(しまって)いるし。紬は「よりよい人生」を目指す意志を見せる必要がある。
澪はダイエットするけど、紬はしないよね?
このへんの、各キャラクターに固有の物語性を踏まえつつ、個々のエピソードでは身体のディティール表現に注力し、終盤で「成長」を回収すれば、『けいおん!』で無理のないドラマが展開できたのではないか。
プレとアフターを貫く物語の主人公は唯、入学から卒業までの期間の主人公は澪、律は最強の脇役、紬は独自のストーリー性を持ってて、梓は二代目主人公、という感じにするのが良いと思う。
やはり澪にはHTTメインヴォーカルの地位を与えるべきだったのではないか。人前で歌うことが物語になるキャラクターは澪しかいない。澪は自らの身体にやどる才能を肯定することが望まれる。
完成された身体を持つ局外的ポジションの癒し系巨乳キャラ、でかぶるみゆきさんとムギですが、みゆきさんが積極性・自主性を身に付けて自己肯定できてるのに対し、ムギは人のためにしか動けず変わりたい願望を抱えている。すると、紬は専用エピソードで独自ストーリー展開する必要があるよね。
みゆきさんは眼が悪いのも含めて完成された身体だから、まさにミスパーフェクト、欠点も含めて矛盾のないキャラクターなんだよな。心と身体が完全に合致してる。また、あの良さがわかる人(こなた・みなみ)にはわかるってのが、見ていて非常に安心感がある。
こなたの人徳はかがみ・みゆきの良さがわかるってとこにあるといっていい。たぶん、つかさは誰が見ても可愛いんだと思う。つかさ一番モテる説はあるよね。

まとめたい。

ドラマ性の薄い日常系ストーリーは退屈。女の子の身体のディティールを表現するとエロくなるが、同時にのぞき見趣味的で不健全。そこで、女の子自身の、自らの身体との向き合い方をストーリー/ドラマに盛り込むことで、効果的にストーリーメイクできるのではないか。
つまり『ARIA』だ。灯里とアリスの関係は唯と梓のそれにも似ている。
女の子の身体/背景の異様に緊密な描き込み、主人公の心情を反映する美術、自らの身体とのつきあい方を盛り込んだストーリー、画面の緊張感に応えるダイナミックな日常、「同じウンディーネとしての他者」を通じて自己を問い直し成長するクライマックス。完璧な女子日常ドラマじゃん原作ARIA
退屈でない女子コミュニケーション的日常系ストーリーをやりたかったら、男との恋愛を排除するべきではないように思うな。主人公に男ができるかはともかく。アリシアさんの結婚こそ勇気ある作劇だろう。
アリシアさんの旦那はオレだからNTRじゃないし*1
灯里ってけっこうイイ体してるのに頭はコドモだし、それでいて感性はものすごく鋭いし、アンバランスな人物に見えて不安を催すんだけど、灯里ちゃんはあれで心配ないのよ、と言うのがアリシアさん。なぜなら街と人と支え合って安定しているからで、灯里の空虚は他者を受け入れるためにある。
一方暁さんはもみ子が頭空っぽだからってけっこう心配してる。それは誤解なんだけど、それを否定しないのが『ARIA』のいいところ。暁さんも灯里を支える系の一部だから。それは、ウンディーネでもネオ・ヴェネツィアの住民でもないけど、それを支えるサラマンダーって設定にも反映されてる。
ところがやっぱりタチの悪いやつは灯里と一体となったネオ・ヴェネツィアにもいて、悪い男にさらわれかけたところを助けてくれたのがスーパーイケメンであるケット・シーさんだったわけですが。
ネオ・ヴェネツィアの暗黒面とつながってるケット・シーさんだけは灯里の女子世界に取り込まれておらず、「私と違う」男として灯里に接している感があり、非常にドキドキする。まあ、ケット・シーさんは紳士なので踊り子には手を触れないが。
自分の小説にどう取り込むかを考えていたのに、結論:ARIAになってしまったのでやることがなくなった。

結論

けいおん!!』に満足できなかったら、かきふらい版か『ARIA』を読むべし。

ARIA(12) (BLADE COMICS)

ARIA(12) (BLADE COMICS)