アニメ『けいおん!(!)』はドラマの作り方を間違った!〜自―自関係と自―他関係〜

別離云々については話の枕にする以上の意図はない。今回は、同人サークル・蛸壷屋の二次創作同人誌に言及しつつ、アニメ版『けいおん!(!)』でのドラマツルギーの作り方について検討したい。
なかなか結論に到達しなそうなので直行すると、『けいおん!(!)』に「欠落」しているのは、女子フィクション的な「重さ」ではなく、男子フィクション的な「重さ」だと思うのだ。
スゲー大雑把に言うと、男子フィクション≒少年漫画的なドラマは自―他関係、女子フィクション≒少女漫画的なドラマは自―自関係において描かれる。
男性の欲望は世界/社会に対して自らを問う、ヒビキ・トカイ風に言えば「証を立てる」ことに向かってきた。対して、女性の欲望は抑圧されたイノセントな自己自身の回復、「〈私〉が〈私〉でいていい世界」*1を求めてきたと。
ゆえに男子フィクションにおいては「私と違う他者」=社会の存在が常に要請される。

私は 私だ
「こっち(わたし)は あっち(あなた)と違う」
この世の闘争(せんそう)の全てはそれが全てだ
(『ヘルシング』10巻)

自―他関係とはすなわち闘争だ。
逆に女子フィクションにおいては、他者とは自己心理の反映であり、自己自身(の一部)と「同じ」存在だ、と。それは友好的局面では自己肯定、敵対的局面では自己への問いかけとして機能する。
他者/社会とイノセントな自己自身との葛藤を描いた女子フィクションの例はたぶん『NANA』とか『働きマン』とかが良いような気がする。
で、ズルをして感覚に語りかけると、アニメ『けいおん!(!)』において自―自関係のドラマ、例えば「同じ」音楽への情熱を持った他者=軽音部員の行動によって、唯が「自らを問い直す」といった展開は欲求されていないハズだ。
けいおん!(!)』二期を通じて最大のドラマであったあずにゃん騒動がどういう話かというと、梓が「私と違う他者」=初期メンバーとの出会いによって影響を受けるものだった。少なくともそう受け取られている。これは男子フィクション的自―他関係におけるドラマだ。
初期メンバーの精神性を象徴する唯の「音楽への情熱」と、かつての(物語のテーマからすると誤っていた)梓の「音楽への情熱」は、全く異なる。
ところが、梓はけいおん部に取り込まれる形で同質化してしまい、けいおん部に逆影響を与えることはできず、唯という光、音楽という世界に対して「自らを問う」、「証を立てる」こともない。これは、自―他関係のドラマとしては明白な「欠落」だ。
『万引きJK生 けいおん部』において、梓は唯を「私と違う他者」としてとらえ、音楽に対して自らの才能を問い、「闘争」に身を置いている。これはアニメ『けいおん!』を自―他関係ドラマととらえる態度であり、さらに原作の「欠落」を埋めようとしている。
続く『レクイエム5ドリーム』『THAT IS IT』では、唯=「私と違う他者」との闘争において敗北を認め、「唯と違う私自身」として再起するキャラクター(特に澪・梓)の姿が描かれている。
さらに言うなら、『けいおん!!』では、「かつての女子高生」さわちゃんや、「無貌の女子高生」であるクラスメイトたちを、「けいおん部員とは違う他者」として積極的に立ち上げている。
そもそも、「唯の隣の子」こと立花姫子を含めた人物、及び背景の異様に緊密な描き込み自体が、「私と違う」他者/世界/社会の存在への認識を示すものではないのか。ポイントは、『けいおん!(!)』の美術がキャラクターの心情を反映しようとしてはいないこと。
あと、キャラクターのリアルでセクシーなデザイン。心を裏切る身体性。『けいおん!(!)』においてギターを弾くことは、ギターの音を出すのではなく、ギターを構え弦を押さえピックを振り下ろしボディを共鳴させる行為だ。だから、ギー太という身体を得るために働くという身体性を導入した。
あー、だから『万引きJK生 けいおん部』の前半パートが必要なのか! タイトルもむしろ端的に本質をとらえてる。蛸壷屋すげえな……なんだこのセンス……
ともあれ、『けいおん!(!)』は自―他関係ドラマだった。少なくともHTTと外部との関係においてはそうであった。しかし、HTT内部では「私と違う他者」が立ち現れてこない。だから、そこにドラマを求める筋からは、「別離」というワードがでてくる。
唯を自―他関係ドラマの主人公としてとらえる観点からは、HTTメンバーが他者性を回復すること、唯が「自らの証を立てる」展開が要請される。HTTという自己が他者=武道館に対して「証を立てる」ことは一期でやってるので、『けいおん!!』では「闘争」がHTT内部に及ばなければならない。
の、だが、かきふらいけいおん!』の本質はもちろん、女子コミュニケーションであり、同質性であり、女子高生という「私」の日常であり、「〈私〉が〈私〉でいていい世界」であり、心で奏でる音楽であり、つまりは女子フィクションにちがいない。アニメ版はそこを守りきっていない。
むしろ、男子フィクション的な物語性を導入してすらいる。つまり、男根主義へのアンチテーゼとしての女子性であり、*2 そこが魅力なのに退屈とDISられ、ドラマがあるのにドラマがないとDISられ、「唯は俺の嫁」と言われることになる。
まあ、だからこそ大ヒットになったとはいえるが。プリキュアシリーズが変身ヒロインアニメを再生したように。
「退屈」な原作にドラマを導入するのなら、自―他関係ドラマではなく、自―自関係ドラマを導入することはできなかったのか京アニ。リアルにしようとして身体性を導入し、盛り上げようとして他者性を導入し、深みを出そうとして社会を導入するのは、男根主義はびこってねえか。
あずまんが大王』でドラマを起こすために、榊さんの心情を反映してヤママヤーを出すあずまきよひこの天才が光る。
けいおん!』にドラマを付与する手筋で、思いつく中で一番よさげなのはマリみて方式=世代交代。ただし、唯―梓―新キャラの三世代ドラマね。新・放課後ティータイムのケーキは憂が用意すると思われるので、紬ポジションに収まった憂の姿を描いて欲しかった気持ちがある。新入生に百合っ娘が入ってきてホクホクしてたり。うーんマリみて
それはつまり、同質性をけいおん部という時限性の箱庭に閉じ込めて、「私と同じ女子高生/ ミュージシャンである他者」との葛藤によって自らを問い直すドラマだ。
さわちゃんは、「私は高校を卒業してバンドもやめたけど、あなた(たち)はどうする?」と問うべきではなかったか。結婚式エピソードも、「同じ道は歩まなくても、かつて過ごした時間と絆は消えない」と解釈できるし。
梓の梓による梓のための、イノセントな梓自身が反映されたけいおん部は、かつてのけいおん部とどう同じでどう違うのか。唯に教えられたことを、梓は後輩にどう伝えるのか。かつての自分自身である後輩を見て、梓は自らをどう問い直すのか。このへんが『けいおん!』でドラマやるなら肝じゃないかなあ。
5人の日常の枠から出ようとしてないのでドラマとしてはやっぱり退屈の誹りを免れないけど、かきふらいけいおん!』の終盤は自―自関係に基づくドラマをちゃんとやってて非常に好印象。正直、かきふらい先生ナメてた。
けいおん!』では音楽はコミュニケーションの手段に過ぎないので、女子コミュニケーションで維持される同質的集団の結末として「勉強」が用意されてるのは実にまっとうだと思う。ケーキ食べてバンドで遊んでただけの日常を通じて唯はちゃんと成長してた、女子フィクション的成長が表現されてる。
澪はすごくコンプレックスが強いので、それを自覚させるところから始めるのは間違っていない。受験当日の修羅場で澪は意地を張れたし、そこでフォロー入れるのが律でなく紬なのもなかなかいい。別に受験という試練によって依存を乗り越える必要はなくて、大学で新しい出会いを通じて解決すればいい。
オレ、けっこう感動しているな。原作けいおん

けいおん! (4) (まんがタイムKRコミックス)

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