『恋愛ゲーム総合論集2』寄稿原稿公開について

在庫僅少につき各寄稿者による原稿公開の呼びかけがあり、1年越しになりましたがここに公開します。
主催の故・then-d氏には随分と無茶な原稿も受け入れていただき、多くの寄稿者と共に評論活動を行う場を与えていただきました。少しでも故人の活動が顧みられるよう願うものです。

なお、一部脚注については、HTMLリンクに置き換えました。

「恋愛ゲーム」の周縁における体験談―卑賎なエクストリーム・アート―

1.まえがき

日本シリーズ第7戦、ホークスVSドラゴンズ@ヤフードームを観ながらこの原稿を書いている。1アウト2ベースバッター多村、ホークス追加点のチャンスである。
なんとも二番煎じ感漂う書き出しだが、残り時間とリアルタイム具合が前回の比ではない。思い返さば2010年冬コミ前、日シリ第7戦の開催日は11月7日であった。ロッテ日本一セールの最中にロッテリアで原稿を書き始めたものだが、地元ホークスの日本一セールを待っていたら、締切に1日間に合わなかった。ナゴドで決めちまえというのだ。こんなところで、今年の我が国のスケジュールの押し具合を想起させられる。
そんなこんなで、サークル「theoria」の恋愛ゲーム論集シリーズ、2冊ぶりの登板である。前回までは志願登板だったが、今回は依頼登板なので、正直気楽に構えている。というか、なんだかんだと前回の原稿「三宅章介(略)」で、「恋愛ゲーム」については、けっこう書きたいことを書ききった感があるのだ。それでも、then-dさんが抜きゲーネタでいいからなんか書けというので、まあ考えてみるとしよう。
というわけで、前回の原稿の、「恋愛ゲーム」なる語について書いた部分を引用してみよう。

いや、本誌で扱われているような作品群をひと括りに「エロゲー」と呼ぶことの問題はわかる。「美少女ゲーム」という語も作られた感があり過ぎる。「パソコンゲーム」ではなにをかをいわんやだ。だいたいにして女の子が出てきて主人公とくっつくのだから、「恋愛ゲーム」と呼んでしまえば大部分の作品をカヴァーできるのは確かだろう。だがしかし、それゆえに、(ぼくはひとまず「エロゲー」という表現を用いるが)エロゲーを恋愛でもって語ることは実に危険なのだ。

従って、「主人公がヒロインの隠されたトラウマを暴く」というシナリオ類型は、エロゲーの構造に極めてよく適合する。主人公がヒロインの内面にアプローチし、ヒロインに関する新たな情報を開示させるゲームデザインを行う場合、それがストーリー上、ヒロインの抱えたトラウマで表現されることは実に合理的といえる。エロゲーにおいては、ヒロインと恋愛するストーリーより、ヒロインを救うストーリーが適しているのだ。

さて、ここにおける「恋愛ゲーム」あるいは「エロゲー」の定義は、「ポルノ要素を含むゲーム」であることを前提としており、なおかつ「葉鍵後」の一般的イメージに準じている。乱暴に一般化すれば、「ストーリーの分岐およびポルノ要素を含むゲーム」のことであり、かつ、「商業、ないしそれに準ずる規模で流通する作品」という条件を暗黙裡に含むとしてよい。なんとなれば、作品の批評的価値、ぶっちゃければ知名度は、その流通規模に大きく左右されるからである。
では、かつてそのような作品を多数プレイしていた筆者が、今プレイしているの作品が、この定義に沿っているかといえば否である。原罪のぼくの主戦場はdlsite.comであり、そこで展開されている、小規模かつ「非収益的」な同人ポルノ作品なのだ。これは、システム面で見れば「CG集」としか解釈しようのないものを含んでいる。
いや、別にエロゲーの本質はエロCG集である、とかラディカルに過ぎることを言うつもりはない。しかし、「恋愛ゲーム」という語には包摂されず、しかし文化的にはその周縁に属するような作品群について言及することは、批評的見地からみてまったくの無為であるとは思われない。例うれば、現在商業エロゲーにおいて一定の勢力を獲得している寝取られ作品の流行は、商業流通に乗らない低価格作品において準備された面が否めない。
本稿で紹介する作品は、恐らく読者の大多数にとって認識も興味もない作品だろう。しかしながら、そこに文化はあり、そこに批評の余地は必ずあるのだ。商業エロゲーに「行き詰まり」を指摘する声の少なからぬいま、異質のコモンセンスのもと成立するこれら作品に目を向けることに、あるいは新たな可能性のひとつやふたつ見出されるやもしれぬ。うし、言い訳終わり。
『イラストとテキストを含み、PCプラットフォームで展開されるポルノ作品』
「準エロゲー」として、その文化的周縁に位置する作品の成立要件を定義してみるならば、こんなところだろうか。小規模なAVG作品はもとより、デジタルコミック、インタラクティヴFLASHコンテンツ、オリジナルドラマCDなどが、この定義には含まれ得よう。これに則り、個人的に着目する作品・製作者について、本稿で紹介していこうと思う。

2.DS[daemon slave]シリーズ(サークル「黒電車」

本シリーズは、なまいき悪魔娘こと「しるこ」をヒロインとする、イラストレーションおよびアニメーションによって成るポルノ・ストーリーである。
二次元ポルノにおいて、エロティシズム追求の過程で生まれてきた表現として、「淫語」と「アヘ顔」がある。「淫語」はエロゲー、「アヘ顔」はエロ漫画において、近年の主要なテーマとして存在してきたといってよい。淫語表現のシンボルとしての『戦乙女ヴァルキリー』シリーズ、その後嗣としての『姫騎士アンジェリカ』、そしていぐぅ声優ことサトウユキの活躍などは、比較的有名なトピックであろう。
「淫語」にせよ「アヘ顔」にせよ、一般に「美少女ゲーム」とも呼称されるポルノゲーム文化において成立した、いわば「デオドラント系*1」の過剰に清潔なポルノ表現へのアンチテーゼとして登場してきた面がある。それは破滅と崩壊のエロティシズムであり、可憐と美麗の否定といえる。一方で、「美少女」なきポルノ表現の限界もまた厳然と存在し、王道をゆくポルノ表現はその「破滅と崩壊」に足る美少女を常に用意せねばならない。サトウユキの起用はむしろ、その可憐な声質にこそ理由を求められるのではないか。
DS[daemon slave]シリーズの魅力は、激烈な調教行為による破滅と崩壊のエロティシズムと拮抗する、ポップでキュートな表現にある。例えば、ショッキングピンクのポップ系フォントによる淫語表現である。例えば、髪色と同系のピンクに彩色されたバサバサ系まつげ、艷めいたグラデーションの唇、描き込まれた歯列によって成るアヘ顔表現である。例えば、犬飼あおによる媚態そのものの音声演技である。例えば、主人公としるこの間に結ばれる、意外なほどストレートな純愛である。
本シリーズは、一般的なAVGの感覚からすれば、非常にプレイ時間が短い。それは、小規模流通ゆえの効率の悪さでもあるし、手の込んだトータルデザインが要求する制作コストのためでもあるだろう。一人のアーティストが、コストを度外視してやり込んで初めて突破できる領域にこの表現はある。しるこは可愛い。そしてエロい。なにか問題があるだろうか? しるこを追い続けてプレイを重ね、二人の愛の物語が示す道筋を知った時、その結末を求めずにはいられなくなるはずだ。

3.プリンセスサクリファイス 供犠姫フィーナの冒険(サークル「猫ひげラジオ」

同人ゲームの話をするのはよかろう。抜きゲーの話をするのだって悪くはないだろう。だからって制作中のゲームの話をするのはいかがなものか。いいんだ、今年一番ハマったゲームだから。それが試作版であったとしても。
本作は、エロティシズムをテーマの中核に置いたRPG作品である。その最大の特徴は、いつでもどこでも発生するエロイベントにある。戦闘中にモンスターに犯される。村を歩けば村人に犯される。裸体に精液まみれのまま往来を闊歩する。そのまま広場に立ち入って視姦される。それらすべてがスキルラーニングとステータスビルドによって自らを鍛え世界を救うことにつながってゆく。
かつてRPGと呼ばれたゲームがテーブルトークRPGと呼ばれるようになった代わりに、かつてコンピュータRPGと呼ばれたゲームはただRPGと呼ばれるようになった。戦闘とリソース蓄積と剣と魔法と魔王討伐を指すようになったロールプレイングゲームの本義、一人のキャラクターの人生を演じるゲームの醍醐味がそこにある。ああ、堕落ってキモチイイ……!
『プリンセスサクリファイス』ではなにができるのか? パンツを脱いでモンスターを誘惑し、絶頂スタンコンボで無抵抗のまま犯され死に、むくりと起き上がって半裸汁まみれのまま敗走することができる。イモを盗んで自警団に追い回され、とっちめられて輪姦された末無一文で放り出されることができる。圧倒的な被虐度で打たれるたびにMPを回復し、絶頂に怯えながらスキル連打することができる。淫売の噂に尾ひれが付いて、水浴びを覗かれ続け、ついには犯されることも……完成版では可能になるはずだ。
ムービーゲーと揶揄されたゲームは、自由度がないと貶された。ならば本作をプレイするべきだ。求めるべき自由はここにある。不死身の力によってあらゆる失敗が許容される、極限の自由がここにある。「便器姫」の称号を冠し、淫靡そのものの姿を晒しながら、それでもいちおう世界を救わんとする内気で健気な少女として旅することができるゲームが他にあるだろうか?
ポルノ要素を含むRPGはいくらもあるが、それがストーリー・ゲーム性と決定的に癒着し、互いに侵食し合ってまったくの異形を造形する作品は唯一無二と断言する。『プリンセスサクリファイス』、いま最も注目する「ゲーム」である。

4.あとがき

日本シリーズはホークスの優勝で幕を下ろした。まことにめでたい。地元福岡で繰り広げられる一大セールが楽しみである。すっかりと小さくなった気のする王会長の笑顔も格別である。また、完全なる有終の美を飾ること叶わなかった落合監督も、新たなモチヴェーションを得たのではないだろうか?
一仕事終えたあとの一服はまた味わい深い。今夜もまた、DS04のお世話になるとしよう。DS05と、プリサク完成版にまみえる日を心待ちにしつつ。

三宅章介を深ーく考えるってことはよォーーー、『幸せにエロゲーしているか?』どーかにつながるからよー、とっても大切なことだと思うわけよ(『恋愛ゲームシナリオライタ論集 +10人×10説』収録)

1.ロッテリアにて
 値上がりした煙草(*1)を吹かし、日本シリーズ優勝セール(*2)で半額になったジンジャエールを飲みながらこの原稿を書いている。
 これが書き出しなのだ。一行目なのだ。色々と察せられるものと思う。C79は12月だ。来年の夏ではない。
 つまるところ、尋常でなく原稿が切羽詰まっている。どのくらい切羽詰まっているかは、参加者でなくとも、主催then-d氏のblog(*3)を事細かにチェックされている方ならば一目瞭然だろう。
 なぜこんなことになってしまったのか。まずはそこから述べねばならない。
 FFやウイイレの新作が出る度に一部漫画家の原稿が遅れるように、個人の作業といえども世の中の流れに大きく左右される。ワールドカップ期間中、ぼくの小説原稿が1ミリも進まなかったことは記憶に新しい。
 では、夏コミ後、締め切り前の期間、時間泥棒として活動したイヴェントはあったのか。それがあったのだ。オンラインで行われるものとしては世界最大規模だろう格闘ゲーム大会、「GODSGARDEN Online #2」だ。
 ぼくがこの大会に影響されて(実際にはそれだけが理由ではなかったが)『SUPER STREET FIGHTER 4』を始め、夜な夜なネット対戦でボコられたり、試合の野良実況まで行っていたことをご存じの読者もおられよう。はっきり言って、燃えた。生活がオンゴッズ中心に回っていたと言ってもいいくらいだ。この熱戦の記録は現在でも動画で観ることができる。(*4)格闘ゲームに興味のない方も、是非一度体験してみてほしい。そして、上級者同士の壮絶な駆け引きに、思いを馳せていただきたい。なに、弱ければ弱いなりの楽しみもある。なにせ人外魔境のゲーセンに行かなくても、ネットで実力に見合った対戦が楽しめるのだ。ぼくの熱心な普及活動が実り、新たに数人のプレイヤーが夜な夜なネット対戦でボコられていることもまた、それなりに周知の事実だ。
 あとはまあ、私事ではあるが、職場が変わったりして、なかなか落ち着くヒマがなかった。さらに私事だが、小説も詰まっていた。そういうわけで、11月に入るまで、この原稿のことをすっかり忘却していたのだ。――当然アセる。(*5)
 とはいえ、ぼくも原稿を引き受けてから進退窮まるまでの間、全くなにも考えていなかったわけではない。いくらかの策戦(*6)を練ってもいた。というより、三宅の作家史は数年前からのぼくのテーマでもある。ということは数年前までの作品が論の中心となっている、というかぶっちゃけTTTなんかやってねえよめんどくせえ(*7)。
 というか。というかだな。前回の論集『+30×30』において、担当ライターの作品を一通りプレイせずに知ってる作品だけで論ずる、というのは一種のネタだったのだ。苦し紛れではあったにせよ(*8)、そこは明確に笑いを意識していた。ところがどうだ。いざ本が出来上がってみれば、担当ライターの全作品を対象に論じている者のほうが少ないくらいの勢いではないか。なんだそりゃ。『ナルキッソス』全部やらないで片岡とも論ってなんなの、とかツッコまれるのを覚悟で銀色の話ばっかしていたぼくがアホみたいではないか。なんかもう、一人で古き良き時代の記憶にひたっている老害にしか見えない。否定はできないが。
 思い返せば『ToHeart2』の発売から既に6年、『ToHeart2 XRATED』から数えても5年以上が経過している。その間ぼくは、そしてエロゲーは、一体なにを成してきただろうか。永田町辺りの事情も併せて、後年「失われた○○年」(*9)と呼ばれることは請け合いだ。時は誰の上にも平等に降り積もり、しかし人生の結果は平等ではない。セカイは常に機会平等主義だ。さにあらば、せめて機会を与えられたことに感謝すべきか。『ToHeart2』は誰にも等しく与えられた。それをいかに解釈するかは、それこそエロゲーマーとしての生き方の問題だろう。
 ここでまたしても電池が切れた。この原稿はポメラ(DM10)+エネループで執筆しているが、どうやらエネループが相当ヘタっているらしく、このところ書き始めるや否や電池切れという状態が続いている。作業効率が悪いことこの上ない。やむを得ず、通常の使い捨て電池を買ってきて執筆を再開した。なんか上手いこと言ったような気がするからもう終わりでいいかなーと思わなくもなかったが、よく考えたら三宅の話を全くしていなかったので、涙を堪えて書かずばなるまい。
 そういうわけで、そもそも近年のエロゲーのプレイ量が相当に不足していることでもあるし(*10)、『こみっくパーティー』『天使のいない12月』『ToHeart2 XRATED』(*11)の3作品を題材に、三宅の作家的挑戦の歴史と、エロゲーの本質について考察してみたい。
 『TH2』をネタにして『TH2 Another Days』は扱わないのかと言われそうだが、扱わない。プレイする気もない。ミルファはぼくの胸の中に生きているからだ。具体的に言うと、メイドロボ三姉妹を主役にしたアフターストーリーの構想が2本ほどあるからだ。官製ミルファを体験することは、ぼくのミルファの決定的死に繋がる。それを受け入れる気持ちには、今のところどうしてもなれないのだ。というか、ミルファシルファに個別ルートとか本当に要らないのだが、その辺りもおいおい語っていくとする。
 と言いつつ結論を先取りすると、『TH2』姫百合姉妹シナリオこそ三宅の集大成的「作品」といえる。ここには三宅5年間の歩みが全て詰まっている。本稿が、姫百合シナリオの再評価、ひいてはエロゲーの本質の正しい認識をもたらす一助となることを願うものだ。って、こりゃ結びの一番だったな。まあいいや。本編に進む。
2.夢よ、人の望みの喜びよ
 ぼくのエロゲー人生史上最高にハマった作品といえば『こみっくパーティー』ということになる。といってもプレイしたのが発売後3年の2002年ごろであり、リアルタイムの熱狂を共有したわけではないので、そう大したものではないと思う。『Fate/stay night』を除けば、だいたいにしてぼくのプレイ体験は後追いなのだが、ともあれ1キャラ当たり最低2周はプレイしているはずだ。
 そして、最高に泣いた作品、あるいは最高に抜いた作品(*12)という基準ではともかくも、プレイする喜びにおいて『こみパ』を上回る作品に、未だぼくは出会っていない。
 さて、『こみパ』の作品性と、そこに読み取れる三宅の作家性に言及する前に、本作が生まれるまでの流れを一通り振り返ってみることとしたい。
 といっても、『DR2ナイト雀鬼』『Filsnown -光と刻-』の二作品で大きな成功を収めることができなかったLeafが、高橋龍也水無月徹のコンビを抜擢し、ビジュアルノベル三部作において社会現象的とも呼べるヒットを飛ばしたことは、あまりにも有名な歴史だろう。あえてその作風を端的に述べるならば、ストーリーに注力するために、ゲーム性やグラフィックに注ぐリソースを切り詰めたものといえる。そしてその戦略は、その後のエロゲーの殆ど全てがフォロワーと化すほどの影響力を持っていた。
 これは、エロゲーブランドの御三家が、アリスソフトを除いて入れ替わるきっかけとなった事件だった。しかし、高橋と水無月は、アミューズメントソフト『初音のないしょ!!』の製作に携わったのを最後に、Leafを退社する運びとなる。
 『こみパ』はLeafにおけるみつみ美里の初原画作品だ。こちらも周知の通り、みつみはかつての御三家の一角、カクテルソフト(後のF&C)の看板原画家だった。みつみと、彼女の同人活動におけるパートナーでもあった甘露樹の移籍は、時代の移り変わりを示す象徴的な出来事として人々に記憶されることとなった。
 ここで、旧御三家時代におけるエロゲー業界の潮流を振り返ってみよう。旧御三家でも最も古い伝統を誇るアリスソフト(旧チャンピオンソフト)は、その歴史を通じて優れたグラフィックと高いゲーム性でもって知られるブランドだ。しかし、他が追随できない高すぎる実力を持つがゆえに、アリスソフトにフォロワーが大挙し、時代の潮流となった事実は、アリス20年の歴史においても記録されていない。御三家時代における時代の中心は、概ねelfにあったといえる。
 elfの最大の功績は、『世界の果てで恋を歌う少女YU-NO』を初めとするマルチサイト作品群によって、エロゲーにストーリー重視(elfのそれは高度にゲームシステムと連動するものではあったが)の流れを根付かせたことにあるといえよう。むろん、『YU-NO』のシナリオを担当した菅野ひろゆき(旧名剣乃ゆきひろ)を世に送り出したシーズウェアの功績は忘れられてはならないが、歴史は勝者が作るものだから。当然、Leaf Visual Novel三部作は、菅野が作った土壌の上に成立したと見るのが妥当だろう。
 では、ゲーム性でもストーリー性でもない、カクテルソフトを御三家たらしめた要素とはなにか。美少女だ。ファミレスの制服をフィーチャーした『Pia♥キャロットへようこそ!!』シリーズに代表される同ブランドの作風は、ひたすらにヒロインの可愛さを突き詰めたものだった。それは、システムよりシナリオより、なによりグラフィックに重きを置くスタイルだったといえる。みつみ・甘露も参加した『Pia2』においてそれは、セックスシーンの排除によるヒロインの希少化戦略にまで行き着いた。(*13)実のところこれは、90年代終盤におけるelfの主力シリーズ『○作』においても踏襲されることとなる。(*14)
 独立独歩のアリスソフトを除けば、この時代はいわば禁欲の時代だったといえる。明朗とはいえないストーリーのためにセックスシーンを削られ、セックスできない極上の美少女を前に歯ぎしりするプレイヤーの姿が、プレ『こみパ』の世界だった。
 看板作家を失い、これといった大ヒットを飛ばせていなかったLeafは新たな道を見つけなければならなかった。本作のシナリオはメインの三宅を含めて3人がクレジットされており、これは高橋無きあとのLeafライター陣の実力・実績のほどを端的に表す事実といえる。チャンスと成長の場を与えられたカクテルソフトを飛び出したみつみにとっても、本作は自らの実力を証明すべき最初の関門だったといえよう。『こみパ』はかような「ゼロからのスタート」を出発したのだ。
 では、『こみパ』とは何だったのか。それは、オタクの願望充足装置だった。そして、エロゲーの全ての快楽を詰め込んだ究極兵器だった。それは原点だった。そのための舞台装置として設定されたのが、タイトルでもあるコミックパーティ――現実におけるコミックマーケットだ。
 サークル「Cut a Dash!」での成功によって商業活動に引き上げられたみつみにとって、こみパコミケは活動の原点だ。そして、アニメをゲームを漫画を愛するオタクにとって、コミケは夢そのものだ。『こみパ』は、単にコミケを物語の舞台とするだけでなく、作品構造に深く取り入れている。
 主人公・千堂和樹がこみパで成すべきことはふたつ。ひとつは、ヒロインと出会い恋をすること。そして、大手サークルとなり同人作家としての成功を収めることだ。
 みつみと甘露の手になるヒロインたちは、当時の最高水準のビジュアルを誇っている。彼女たちとの恋愛は、カクテルソフト一流の美少女快楽を見事体現するのみならず、アニメの美少女たちの艶姿を求めて邁進する、プレイヤーのコミケ体験とも合致するものだ。そのため、『こみパ』のセックスシーンは、カクテルソフトのそれより遙かに濃い。もちろん今でいう抜きゲーとは比べるべくもないが、それでも「純愛ゲーム」にエロを取り戻したことは確かだといえよう。
 さらに、各ヒロインには美大受験の失敗から「コミケ・ドリーム」目指して奮闘する和樹の性質を反映して、熱血的なストーリーが必ず付随している。それは、後に「葉鍵」の片割れであるKeyの作風として広く認知されるような、ヒロインの物語に主人公が大人しくお付き合いするようなものではなかった。むしろ、主人公とヒロインのエゴが相克するような、和樹の夢であるこみパという舞台装置を存分に活かしたものだった。ここには、ビジュアルノベル三部作的なストーリーを読む快楽も確かに息づいている。それも、遙かにまっとうな、むしろ『EVE』的とすらいえるエンターテインメントだ。特に、みつみをモデルとしたヒロイン・大庭詠美シナリオにおける青春映画顔負けの展開は、「オタクが送ってみたかった青春」としてまばゆい輝きを放っている。
 そして、これらをゲームシステムが支えている。『こみパ』の基本システムはSLGであり、そこにおける売り上げ部数がストーリーの進行フラグになっているのだ。ヒロインとの接触を増やし好感度を稼ぐ要素もあるが、ゲームパートにおけるアドヴァンテージ、すなわち同人作家としての成功なくしては、ヒロインとの恋愛を進展させることはできない。むしろ、恋愛の達成はゲームパートにおける成功に付随する要素に過ぎないとすらいえる。ストーリー上でも、メインヒロインである高瀬瑞希を除けば、その進行は概ねこみパにおいて起こる諸問題の解決を軸にしており、恋愛関係の成立はほとんど、結果論だ。
 ここで着目すべきは、『こみパ』における三宅のシナリオは、恋愛を主軸としていない点だ。ゲームの基本的な目的は同人作家としての成功にあり、ヒロインは目的達成に対する報償のヴァリエーションに過ぎない。ゼロからの成功を目指し、三宅がみつみを立てて作り上げたゲームは、恋愛ゲームではなかったのだ。
3.タイガー&ホース
 正直なところ、ぼくはこの本の『恋愛ゲームシナリオライタ論集』というタイトルに不満がある。けっこうあちこちで公言しているのでご存じの読者もいらっしゃるだろうが、「恋愛ゲーム」という表現は、本質的ではないと考えるからだ。
 いや、本誌で扱われているような作品群をひと括りに「エロゲー」と呼ぶことの問題はわかる。「美少女ゲーム」という語も作られた感があり過ぎる。「パソコンゲーム」ではなにをかをいわんやだ。だいたいにして女の子が出てきて主人公とくっつくのだから、「恋愛ゲーム」と呼んでしまえば大部分の作品をカヴァーできるのは確かだろう。だがしかし、それゆえに、(ぼくはひとまず「エロゲー」という表現を用いるが)エロゲーを恋愛でもって語ることは実に危険なのだ。
 さて、三宅属するLeafを語る上で切っても切れない存在がKeyだ。アリスソフトと合わせて新御三家とも呼ばれたLeafとKeyは、その関係の深さゆえ、まとめて葉鍵と称される。当時のLeafとKeyの位置づけについては、2ちゃんねるにおける葉鍵板誕生に関する資料を参照するのが簡単だろう。(*16)
 90年代の後半からゼロ年代の前半を通じて、葉鍵エロゲー業界における最大の巨人だった。Leafビジュアルノベル三部作によって提起した「ストーリー偏重」スタイルは、Keyの初期三部作(Tactics時代を含む)、すなわち『ONE』『Kanon』『AIR』によって支配的なものとなり、その後の作品群にあまりに多大な影響をもたらした。その功罪は措くにしても、Key初期三部作にはひとつの明確な特徴が見て取れる。それが、ヒロインのトラウマに基づく作劇だ。
 Keyのブレイク以後、ストーリー重視のいわゆるシナリオゲー(あるいは陵辱に対する純愛ゲー)においては泣きゲー・鬱ゲーと呼ばれる、ヒロインの抱えたトラウマな深刻な事情に焦点を当てた、陰鬱な作品が主流を占めることとなった。これは根拠のない「柳の下の泥鰌」なのか? いや、社会的な時代背景は措くとしても、柳の下に泥鰌がいる理由は確かにあるのだ。
 エロゲーの多くはゲームジャンルとしてはアドヴェンチャーゲーム(AVG)に属する。すなわち、テキストを読むことによってゲームを進行させ、選択肢を選ぶ(*16)ことによってクリアフラグを立てるゲームだ。そして、著名なAVGのほとんどは、ミステリゲーム、謎解きゲームだ。システム上、AVGにおいてはシナリオ分岐が重要な要素になり、新たな分岐を発生させる――新たな情報を開示させるというゲーム性を素直にストーリーに落とし込めば、ミステリになるのは自明の理といえよう。実際、LVN三部作のうち、『痕』はミステリの要素を多分に含む作品だ。
 そして、エロゲーにおいてはさらに「ヒロインを攻略する」という要素が加わる。話を純愛系エロゲーに限るなら、そのほとんどは、ゲーム目的を特定のヒロインとの恋愛関係を成立させることにおいている。そして、男性である主人公(プレイヤーキャラクター)がそのための努力を払う。主人公が直接的に「女の子を落とす」ことを指向していなかったとしても、ストーリーの展開は主人公の行動、あるいは選択によることが常だ。エロゲーにおける主人公とヒロインの関係は非対称的であり、肉食獣と草食獣の関係のように一方的だ。本稿ではその倫理的是非に踏み込むつもりはないし、個々の作品において表現されている男女関係は一概に論じうるものではないが、構造的には主人公からヒロインへのアプローチがゲームを成立させていることは間違いない。これがコメディになると、ヒロインがボケて主人公がツッコむ(*17)という漫才スタイルになる。
 従って、「主人公がヒロインの隠されたトラウマを暴く」というシナリオ類型は、エロゲーの構造に極めてよく適合する。主人公がヒロインの内面にアプローチし、ヒロインに関する新たな情報を開示させるゲームデザインを行う場合、それがストーリー上、ヒロインの抱えたトラウマで表現されることは実に合理的といえる。エロゲーにおいては、ヒロインと恋愛するストーリーより、ヒロインを救うストーリーが適しているのだ。
 純愛エロゲーにおいては、必ずと言っていいほどヒロインと恋愛関係を構築するエピソードが含まれ、ほとんどの場合はそれがエンディングに結びつくため、そうした作品を「恋愛ゲーム」と捉えがちだ。しかし、エロゲーのゲーム面での実態は、選択しによってフラグを立て、新たな分岐・新たな情報を開示させるゲームであり、ヒロインとの恋愛は、極めて有力なヴァリエーションに過ぎない。
 さて、『天使のいない12月』だ。本作は、三宅の4年ぶりのオリジナルタイトルであり、初めて単独でシナリオを担当した作品だ。原画はみつみと、みつみの師匠であるなかむらたけしが担当している(甘露はグラフィック監修としてクレジット)。グラフィックスタッフは、御三家の一角にふさわしい、威風堂々たる面子だ。
 本作の広報において、三宅を含むスタッフ陣は、口を揃えて「本作は恋愛ゲームではなく青春ゲームだ」と発言していた。では、『天いな』のストーリーがいわゆる青春モノ的な魅力を表現していたかといえばそれは怪しい。いわば、本作のテーマは「青春」ではなく、「アンチ恋愛」だ。
 主人公・木田時紀は、無気力かつ厭世的な少年であり、学校の屋上を占拠して喫煙することを日課としている。メインヒロインだ栗原透子は無能・弱気・不美人(*18)の三拍子揃った少女であり、屋上に逃げ場所を求め、交換条件として木田に体を差し出す。これが共通シナリオの出来事だ。
 これが、内心では木田に恋していた透子の、遠回しなアプローチだった……というような話は本当にない。二人は愛情のないセックスに溺れ、はっきりした恋人同士にならないまま結末を迎える。それは他のヒロインのシナリオの場合も同様であり、どのルートでも木田が透子と性的関係を持つ以上、より純愛の観念からはかけ離れた内容といえる(*19)。ではエロティシズム重視の抜きゲー作品だったかといえば、それも否。本作のセックスシーンはあくまで、「ストーリー上必要な」シーンの枠をはみ出すことはない。シナリオゲームの二大巨頭たるLeaf作品らしくストーリーに力点が置かれ、純愛/陵辱の二分法によれば純愛に入れざるを得ない。しかしまっとうな恋愛とは真逆を向いているのが本作の特徴だ。
 『天いな』のストーリーの要点は、木田がヒロインとの関係に答えを見つけだすことにある。それは、恋愛の成立条件とイコールではないし、倫理的に正しい必要もない。二人が納得できる答えを木田が得ることが、各シナリオのクライマックスの展開だ。
 これは、キワモノのように見えて、実は優れてエロゲー的な作劇ではないだろうか。AVGのシステムで表現すべきは問いに対する答えであり、シナリオがヒロインごとに分岐する以上、その答えは各ヒロインに固有のものであるべきといえる。極論をいえば、恋愛の成立がゴールである限り、各分岐シナリオは、同じ結論に違うパートナーとたどり着く過程に過ぎない。あえて恋愛から離れ、一般的な倫理観念に背を向けて、当事者以外には意味を持たない答えを描こうとした三宅の態度は、エロゲーの本質を克明に浮かび上がらせる有意義な試みと考える。
 そして、三宅独自の発展といえるのが、サブキャラクターの活用だ。透子以外のシナリオでは、自然、すでに肉体関係を結んだ透子との関係をいかに清算するか、という答えも求められることになる。それだけでなく、色々な意味で不健全ではあるものの、親友同士である透子と榊しのぶの関係についての答えも、両ヒロインのシナリオでは重要な要素となる。須磨寺雪緒シナリオでは木田の妹・恵美梨が、葉月真帆シナリオでは真帆の現恋人・霜村功が絡んだ三角関係が成立し、それぞれにストーリー上の焦点となってくる。恋愛がテーマではない以上、人間関係が一組の男女の枠内に留まる必要はなく、むしろそうした諸条件の提示によって、回答の固有性を強調することも可能になっている。例えば、恵美梨を受け入れなかった雪緒が木田になにを求めていたのかということは、雪緒シナリオのテーマとして特有の味わいをもたらしている。
 そもそも、エロゲーのストーリーが主人公と一人のヒロインの関係描写に偏りがちであるのは、セックスシーンの相手によってシナリオ分岐を行う必然性と、複数の相手と性交渉を行うことへプレイヤーが感じる抵抗の合成によるものに過ぎない。本作の発売された2003年以降、エロゲー全体が、攻略されなかったヒロインを含むサブキャラクターの登用へ向かってゆくのは周知の事実だが、脇役的な登場ではなく、解決すべき人間関係の一部としてサブキャラクターを組み入れる作劇は、『君が望む永遠』を除けば純愛系では類を見ないものだった。また、『君望』のそれが作品独自のドラマを成立させるために要請された意味合いが強いのに対し、『天いな』の技法は従来的なエロゲーの延長線上に位置し、高い汎用性を供えている。
 それは、逆に言えばありきたりだということでもある。エロゲーにおいて、セックスシーンのないキャラクターは本質的に全て脇役といえる。セックスシーンのある「ヒロイン」同士の相互関係が描かれたのは、透子としのぶの間のみだった。それが『天いな』のひとつの限界だった。
 なにより、本作の最大の欠点は、面白くないことだった。こう言ってしまうと身も蓋もないが、プレイヤーに共感可能な体験を描くことに集中したわけでもなく、明るさも楽しさも盛り上がりもない『天いな』のシナリオは、『こみパ』にあったプリミティヴな魅力、願望充足装置としての能力を全く失っていた。いや、個人的には、バラ色の青春は非実在青春なので、透子との関係は、自分が送ることのできなかった「理想の灰色青春」として胸が熱くなるものがあったのだが、一般的には失敗作、いいとこ実験作と評価せざるを得まい。しかし、この失敗が、次回作で大きく花開くことになるのだ。
4.強能力者
 スタッフロールによれば、『ToHeart2』で三宅が担当したヒロインは姫百合珊瑚&瑠璃、ルーシー・マリア・ミソラ、『XRATED』で久寿川ささらだ。このうち、ぼくが最も重要と考えるのは、先述の通り、姫百合姉妹シナリオだ。従って本稿ではこれを中心に論じる。
 さて、『ToHeart2』だ。かつてLeafを一流ブランドに伸し上げた『ToHeart』の続編であり、シミュレーションゲームだ『うたわれるもの』を除けば、『こみパ』以来のアニメ化作品でもある。Leafが誇る原画陣(みつみ、甘露、なかむらに加え、カワタヒサシ)が一同に会し、東京・大阪両開発室が共同で開発した本作は、高橋・水無月退社後におけるLeafの総決算的作品といえる。
 その『TH2』で、三宅は『こみパ』と『天いな』で行ってきた試みにひとつの結論を見せている。それが、姫百合姉妹シナリオだ。webに発表した感想も併せてご一読いただきたい。(*20)
 三宅は、「恋愛ゲーム」において、恋愛以外の要素によって物語を成立させてきたシナリオライターだ。『こみパ』と『天いな』では恋愛と近接するテーマが語られてきた。『こみパ』では主人公自身の人生の達成に伴う恋愛の成立。『天いな』では肉体関係に基づく男女関係と、それにまつわる問題の解決だ。
 ならば、彼が『TH2』というまっとうな「恋愛ゲーム」たらねばならない作品で執筆するとき、そこには「恋愛の中の恋愛でないもの」が立ち現れてくるのではないか。その、彼の作品に欠落していたテーマが、幸福だ。
 繰り返し述べてきた通り、エロゲーの本質は答えを求めるゲームであり、その答えはヒロインごとに個別のものであるべきといえる。多くのエロゲーでは、恋愛関係の成立、もっといえば両想いになることがその答えとして提示されてきた。いわゆる好感度システム、ヒロインの好意を得ることを目的とするゲームデザインからすれば妥当な作劇といえる。だが一方で、互いに愛し合っていながら幸福になれない男女を、我々は現実でも物語でも、いくらでも見てきたのではなかったか。
 『TH』の続編制作に当たって、主人公とヒロインの間に恋愛関係が成立することは前提条件と言ってよい。(*21)両者は両想いになる――それが可能なゲームデザインが行われる。しかし、それはそのまま、彼らが幸福になることを意味するのだろうか。
 ここで、姫百合ルートの内容を時系列で振り返ってみよう。珊瑚・瑠璃姉妹の幼少期、優れた頭脳を持ちながらも変わり者で周囲から浮きがちだった珊瑚を、瑠璃が守っていた。そのために「友達」がいなくなった瑠璃のために、成長した珊瑚は、瑠璃の「友達」たるべきメイドロボを開発する。かのHMX-12マルチの末裔たる、来須川エレクトロニクス製HMX-17モデルの3体。そのうち最初にロールアウトした長姉がイルファだった。使命に従い瑠璃に尽くそうとするイルファだったが、珊瑚に姉以上の感情を抱く瑠璃は、二人の関係に介入してくるイルファを拒絶する。ここまでが、主人公・河野貴明が介入するまでの、ヒロインたちの経緯だ。
 彼女たちは、互いを愛するがゆえに行き詰まっている。恋愛感情も含めた愛情で繋がっているのに、幸福からは遠ざかっている。道を誤っているのに、それを正す方法を見つけられないでいる。その答えを見つけることが、このシナリオにおける貴明の役割だ。
 貴明は、イルファが瑠璃への愛情を正しく表現できていないことを指摘し、イルファ(あるいは、彼女を生み出した珊瑚の思いやり)を受け入れられない瑠璃の苦しみを受け止め、珊瑚の家族全員への深い愛情を受け入れる。そして、自分自身を含めた全員が家族として、全員を愛しながらともに暮らしてゆくという、「たったひとつの冴えたやり方」にたどり着くのだ。
 ここで重要なのは、彼らの関係が、「両想い」の成立を、必ずしも前提としてはいない点だ。珊瑚は瑠璃に姉妹以上の感情を抱いてはいない。瑠璃はイルファを珊瑚ほど大切に思えない。イルファの瑠璃への感情は、メイドロボも「友達」も逸脱しており、姉妹を同等に扱うこともできていない。そして彼女たちは全員、一番大切な人が貴明ではない。貴明自身、彼女たちの「重さ」に釣り合うほどの愛情と覚悟を抱いているかといえば、はなはだ心許ない。
 それでもなお貴明は、ヒロインたちの幸福のために奔走し、形は違えども全員を平等に愛し、全員が幸福になれる方法を提示する。姉と妹、人と機械、二股三股という、一般的な倫理・恋愛観念からは逸脱した関係であっても、自分たちの個別の幸福のために必要であれば、彼はそれを肯定するのだ。
 貴明のこうした努力に対する物語の評価が、珊瑚の「すきすきすきー」=レベル3認定だ。元々、珊瑚にとって最大級の愛情表現たるレベル3に該当するのは瑠璃とイルファ(と彼女の妹たち)だけであり、貴明は「すきすきー」=レベル2だった。貴明が姫百合家の問題を解決した後の段になり、ようやく彼は珊瑚の「最愛の人」になるのだ。
 これは、珊瑚たちのために奔走する貴明の姿に恋したからではなく、全くその功績を認めたものと解釈すべきだろう。この人を好きになってもよい――この功利的なまでの判断に、嫌悪を覚える向きもあるかもしれない。しかし、これが三宅の、エロゲーに対する回答なのだ。
 正しい答えだけが、人を幸福にする。愛が幸福なのではなく、理解が幸福なのだ。愛≠理解(*22)。そして、セカイの謎を見通し、自らが望む結末を提示することは、すべての主人公が本来持ちうる特殊能力だ。物語の焦点を主人公の「能動的推理」に集約させた作劇は、三宅が用意した、エロゲーへのひとつの回答であるように思えてならない。
 そして、なにより素晴らしいのは、問題解決後の4Pセックスシーンだ。いや、その、単に4P最高という話ではなく、最高なのだが、物語の結末をちゃんとプリミティヴな快楽に結びつけているところが素晴らしいのだ。ややこしいストーリーの締めに、あまりにもシンプルかつ徹底した「ご褒美エッチ」。『こみパ』で描かれた男の夢が、ここに蘇ったのだ。これは、Leaf史上初の複数和姦だった。恐らく空前にして絶後となるだろう。
 ところで、このとき貴明は3人を相手にしたわけだが、後にはミルファシルファが控えている。従って最終的に姫百合家の夜は6Pまで発展するはずだ。6人での幸福な在り方、「たったひとつの冴えたやり方」を見いだしたとき、貴明はレベル5を超えてレベル6に至ったり(*23)するのかもしれない。してみれば、再びレベル1に戻るというのは、ちょっと受け入れがたい話だろう。姫百合シナリオの後に必要なのは、夢の6Pだけだ。(*24)だからこその『Another Days』なのかもしれないが。
 かように、姫百合姉妹シナリオは、既存のパターンをなぞってこそいないが、本質的には優れてエロゲーらしいエロゲーだ。ところが、逆に、流行りもの連鎖的パクリとタコツボ化で生まれた、本質的快楽に目を向けない、悪い意味でエロゲーらしいエロゲーシナリオも三宅は書いてしまっている。ささらシナリオだ。本稿は基本的に三宅を誉めそやすのが目的なので、ささらシナリオについては、三宅の「エロゲーとは何ぞや」という問題意識を示すもの、と指摘するに留める。(*25)
5.きれいなお姉さんは、好きですか
 本来なら『TH2』については姫百合姉妹の話しかしないつもりだったのだが、書いているうちにるーこの可愛さを思い出してなんともたまらん状態になってしまったので、るーこ・きれいなそらというエロゲー史上に残すべき(*26)ヒロインが誕生した素地についても書いてみたい。
 これまで書いてきた通り、三宅のシナリオにおいて、ヒロインとの恋愛関係の成立は主要な目的ではない。例外は『こみパ』の瑞希くらいで(それゆえ、瑞希自身の魅力は認めつつも、瑞希シナリオのストーリー展開はあまり高く評価できないのだが)、基本的に主人公は問題の解決をまず指向する。
 また、三宅の書くヒロインには、主人公とプレストーリー的な関係性を結んだ人物――端的には幼なじみや姉妹がほとんどいない。瑞希でよほど懲りたものか、明らかにメインライターという立場だったろう『TH2』で、三宅は「センター」(*27)たるこのみ・環の執筆を避けている。主人公に好意を抱くべき理由がある人物、というところまで範囲を広げても、立川郁美が含まれる程度だろう。
 端的に言えば、三宅のヒロインは、サーヴィスシーンを提供しない。主人公への興味や好意を示すことによってプレイヤーを惹き付ける存在ではないのだ。三宅はむしろ、ヒロイン自身をいかに魅力的な人物として描くかに精力を傾けてきたと言ってよい。
 『こみパ』の三宅担当(と言われる)シナリオの中で高評価を得たものといえば、まずは詠美シナリオ、ついで由宇シナリオだろう。言うまでもなく『こみパ』で最も「濃い」二人だ。同時に、「女性的な魅力」に欠ける二人でもある。容姿の問題もあるが、生々しい女らしさが表現されていたのはむしろ南シナリオや彩シナリオだろう。
 『こみパ』における三宅キャラクターの最大の魅力は、コメディリリーフとしての性能や、ストーリーに対する牽引力であり、「美しさ」ではなかった。漫画版『こみパ』での南・彩の存在感の薄さも理解できよう。
 後から考えれば、『こみパ』発売後の三宅は女性らしさの表現を課題としていたのかもしれない。『天いな』では、若く未熟で、人間関係で失敗を繰り返す女たちが描かれている。そこには、萌え的なプレイヤーサーヴィスでも、ストーリー上のパフォーマンスでもない、「仕草の説得力」が表れている。
 例えば、しのぶは木田に平手打ちをする。この手の高慢ちきな女が男を叩くのは実にありきたりだが、なかむらが手がけた立ち絵の素晴らしい出来映えもあり、このシーンのしのぶにはぞくっとするような色気がある。夕暮れの教室でギターを弾く雪緒も然り。恵美梨のヒステリックな言動然りだ。誰でも反応できるご褒美ではなく、ストーリー上重要というほどでもないが、通じる人には通じる女の色気。これを、ポジティヴな人格に適用したらどうなるのか? その答えが、ルーシー・マリア・ミソラこと、るーこ・きれいなそらだった。
 るーこは、貴明になにもしてくれない。朝起こしにくることも、弁当を作ることも、手を繋いでデートすることもない。サーヴィスシーンらしきものの全くないキャラクターだ。その茫洋とした表情からは、貴明への好意すら容易に読み取れない。
 ルーシーシナリオでは、ひたすらにるーこ個人の多面的な魅力が描写されている。桜吹雪を浴びながら眠る神秘的な美しさ。喫茶店で衆目を集める芸者的なエロティシズム。見ず知らずの子供のために、希少な「るー」の力を遣う慈愛と覚悟。「るーこ・きれいなそら」という名前に込められた誇り。(*28)ポップでキュートなヴィジュアルデザインに反し、るーこは、どこまでも「いい女」だ。そのあり方は貴明にも重い責任を強いる。ルーシーシナリオの結末は、るーこと貴明が示した「崇高さ」に対する、「るー」の大岡裁きによって成立するハッピーエンドだ。そこでは、永遠の愛を象徴して、「結婚」という契約が重要な意味を持つ。
 ここでも、主人公とヒロインが愛し合うことは、すぐさま幸福に結びつくことはない。二人はその愛を試され、貴明はるーこに釣り合う男であるかどうかを試されるのだ。道具立てこそ具体・抽象両極端でセカイ系的だが、これは映画の作劇に近い。
 姫百合シナリオが「ポルノゲーム」に対する三宅の回答だとするなら、ルーシーシナリオは「ラヴストーリー」に対する三宅の回答といえまいか。美形の役者による、崇高な愛の表現。恋愛否定の末にたどり着いた、三宅らしい「恋愛ゲーム」の姿だ。
6.ふたたび、ロッテリアにて
 三宅作品は面白いのか。
 この問いに回答することは、なかなかに難しい。今回取り挙げたような練り込まれた作品がある一方で、評価がメタメタな作品も存在するからだ。
 おそらく、三宅がLeafを離れ、「看板ライター」となって成功することは不可能だろう。Leafが誇る原画陣の傘の元で守られてきた面は否定できず、また、原画の能力・存在を最大限に活かした作品を送り出してきたことも事実だ。少なくとも『ToHeart2』までの三宅は、Leafに課せられた使命を正しく遂行してきた。三宅は、どこまでも「Leafの三宅」だ。
 ならば、三宅が再び大きな輝きを放てるかどうかは、エロゲー業界において、「恋愛ゲームの雄」たるLeafが果たすべき役割が残されているかにかかっているのかもしれない。

 *1 2010年10月1日施行。
 *2 2010年11月7日、第7戦にて日本一決定。MVPは今江敏晃
 *3 then-d’s theoria blog ver. http://d.hatena.ne.jp/then-d/
 *4 GODSGARDEN on USTREA http://godsgarden.jp/ 他、ニコニコ動画にもアップロードされている
 *5 『はじめの一歩』第86巻 Round821「猛獣の檻」
 *6 西尾維新表記。結局行き当たりばったりであることが多い。
 *7 RPGだし……。
 *8 今回ほどではないが、前回も相当ヤバかった。全作品プレイが不可能な程度には。
 *9 二桁。
 *10 というより、抜きゲーに偏っている。
 *11 『ToHeart2』は未プレイ。
 *12 前者は『銀色』、後者は『陵辱ファミレス調教メニュー』だと思われる。
 *13 『Pia♥キャロットへようこそ!!2』のメインヒロイン・日野森あずさシナリオでは、セックスシーンを通過するとバッドエンドとなる。
 *14 『臭作』における高部絵里脱ぐ脱ぐ詐欺については、ちゆ12歳に詳しい。 http://tiyu.to/permalink.cgi?file=news/02_12_19
 *15 葉鍵板年表 http://nippoudairi.2-d.jp/hakagi_ita/nenpyou/
 *16 神話の時代には、テキスト入力によって進行するゲームもあったと聞く。
 *17 性的な意味でも。
 *18 未だに信じられないが、設定上、透子は本当に不美人である。モテないのはわかるが。
 *19 『君が望む永遠』ですら、速瀬水月との肉体関係には恋愛感情が伴っていた。
 *20 過去の『ToHeart2 XRATED姫百合姉妹シナリオ言及まとめ - 猫拳@はてな http://d.hatena.ne.jp/catfist/20101114/1289746255
 *21 『ToHeart』の志保シナリオは、継承すべき伝統とは考えられていなかったはずである。
 *22 『ストーンオーシャン』Act.75雑誌掲載時アオリ文より。 http://atmarkjojo.org/aori/riyuu.html ジョジョを否定するつもりはないが、人間なかなかジョースターほど上等には生きられまい。
 *23 クローンを2万人殺せばレベル6になれるのだから、極上の美少女を5人同時に抱けば楽勝であろう。
 *24 ちなみに、ぼくが構想している姫百合シナリオアフターストーリーは、メイドロボ三姉妹がマルチと邂逅するエピソードと、姫百合姉妹と貴明の死後におけるメイドロボ三姉妹の人生を描いたものの二つがあるが、いずれも6P前提である。
 *25 ささらというヒロインが、後述の三宅らしさとは全くかけ離れていることは明らかであろう。
 *26 今からでも遅くない。
 *27 AKB48的表現。
 *28 ベジータという名前に匹敵するほど。

片岡とも――私的体験としての(『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人30説+』収録)

1.片岡ともという時代
私は片岡ともの熱烈なファン――でした。そう、過去形で表現すべきでしょう。
私がプレイした彼の作品は半数以下、『銀色』から『ラムネ』までのものだけですから、これでファンを名乗り続けるのもおこがましい。しかし、それでもなお私のエロゲー体験において、片岡ともはやはり、特別な存在でした。それは、時代というものがそうさせたのだと、今となっては思います。
私がエロゲーの世界に入ったのは2002年でした。当時は、LeafとKey、いわゆる葉鍵の時代が終わり、次代を担うメーカー・クリエイターが覇権を競いあう状況にありました。そのポスト葉鍵世代において、片岡とも属するねこねこソフトは有力なプレイヤーの一翼に数えられました。
このいわば戦国時代は、2004年の『Fate/stay night』発表をもって、TYPE-MOON奈須きのこの覇権形成という形で終焉を迎えます。従って、ポスト葉鍵時代というものを区切るとすれば、有力なプレイヤーがデビューした1999年から、『Fate』が登場する2004年まで、ということになるでしょう。
そう、私がプレイした片岡とも作品は、まさにこの期間に発表されたものに限られています。それは、私にとっての片岡ともが、ポスト葉鍵という時代と切り離せないものであり、かつ、同世代の諸作品の中でも、特異な意味を持つものであったからです。
2.Keyとの関係
片岡ともの創作活動は、同人ゲームサークル・ステージななからスタートしています。(ただし、このときは原画家として。)そこで制作されたのは、Key作品の二次創作です。ポスト葉鍵世代のシナリオライターに、葉鍵作品の影響を受けていない人はむしろ少ないでしょうが、二次創作出身というのはやはり特異な立ち位置といえます。
多くのシナリオライターは、葉鍵のもたらしたものに立脚した上で、自らの表現を突き詰めていきました。そこにあったのは、葉鍵に対する加算の思考、ノベルゲームというフォーマットに新しいアイディアを付け加えようとする態度です。
片岡ともが行ったのは、真逆のアプローチでした。彼はむしろ引き算を――つまり、葉鍵作品の特定の要素に着目し、それ以外の部分を削ぎ落とすという方法論をとっています。
それは、葉鍵の総括とも呼べる運動であり、彼にとっての葉鍵がどういったものであったのか、という告白でした。
つまり彼は、表現者である以上に語り部であった、といえるのかもしれません。奈須きのこ虚淵玄鋼屋ジン、王雀孫、田中ロミオ星空めてお――彼らエンターティナー、あるいはアーティスト、あるいはクリエイティヴと表現すべき才人たちに比べ、片岡とものシナリオは、木訥として飾らず、ある種の禁欲性に満ちています。そして、“美少女ゲーム”を市場として開拓しようと試みた諸ゲームメーカーと比較して、彼の率いたねこねこソフトの“反利益主義”とも言うべき経営姿勢は、異常とも表現しうるものがありました。
作品外においては多弁な作家であった彼の発言を、私は積極的に追っていたわけではありませんので、想像に拠るしかありませんが――二次創作サークル・ステージななとしての活動は、そうした作風と軌を一にするものだと考えることは、不自然ではないでしょう。そして、彼の私的な経験を直接的に反映したモティーフが、作品にしばしば見られることもまた、私的体験としての葉鍵を表現しようとする運動と一致した現象であると、私には思われるのです。
従って、私にとっても、片岡ともを客観的な視点で評することは、困難である以上に無意味ではないかと思われました。よって、あくまでも当時の私が触れた、私的体験としての片岡ともについて、本稿では述べることをご了承ください。
前置きが長くなりました。まず、彼にとっての葉鍵とはなんだった、ということを検討してゆきます。それを端的に表すのが“日常”です。
3.積み重ね、繰り返し、リフレインする“日常”
ねこねこソフト初期の二大傑作にして、今もってメーカー代表作といえる作品が『銀色』と『みずいろ』です。“ふつうのギャルゲーを目指して…”というコピーを冠し、事件ともいいがたい出来事を綴った『みずいろ』はともかく、中世をも舞台とし、明らかな悲劇性を帯びた『銀色』を日常を描いた物語と評することには抵抗があるかもしれません。
しかしそれは、『銀色』で描かれる日常が、プレイヤーの経験する日常と異なるにすぎません。繰り返される日々の中、積み重ねられるなにものかを描く物語が、日常を表現していないとどうしていえるでしょう。
“繰り返し”と“積み重ね”、そしてその中でリフレインされる特定の“モティーフ”――これは、片岡とも作品を読み解く上で重要なキーワードです。
全五章のオムニバスで成る『銀色』において、片岡ともは一章・五章(エピローグ)を担当しています。一章で描かれるのは、ヒロイン・名無しの少女の、人権を剥奪された娼婦としての日々と、野盗の男・儀助の、山を通る旅人を襲い、その日の糧を奪うのみの日々が交錯し、共に潰える様。そして、月、蛍、握り飯・あやめの花といった、数々の印象的なモティーフです。
握り飯は二人の日常の“積み重ね”によるかすかな変化を象徴しています。自らの生に意味を見いだし得ず、従って他人の命にも守るべき価値を認めなかった儀助は、名無しの少女との出会いにより、襲った相手を殺さず見逃すという選択を、初めて行うことになります。
結果として、この選択が山に武士を呼び込み、二人の死につながるのですが、この作品を私がすばらしいと感じるのは、そこに一切の肯定も否定も持ち込まないことです。
儀助は改心したわけでもなければ、生きるため他人の命を奪うことに抵抗を覚えたわけでもありません。ただ、殺さないことで少し気分がよかった。少女と共にいることで、少し寂しくなかった。二人でいることで、自分が生きていた証拠を残し得た。それは、ただただ“繰り返し”と“積み重ね”のみによって、もたらされたものです。
「生きた証が欲しい」――名無しの少女が実存を求める叫びの象徴であったあやめの花、その真の意味が明かされるのが五章です。自らの死を目前に、わが子を生かそうと地を這いずる女・こずえ。彼女が、最期に目にしたものこそ、野に咲くあやめの花でした。彼女こそ、人生になんの楽しみも幸せも得ることなく息絶えた名無しの少女の母であり、少女が終生知ることのなかった自らの名が、すなわち“あやめ”だったのです。
幸福や恋愛といった手垢の付いた概念に毒されない、純粋な生の実存――私的体験。これが、片岡ともが描き続ける“日常”の先に見いだされる価値観であり、おそらくは、彼の信念とも呼べるものでしょう。
これは、葉鍵の提示した“日常”とは、似て非なる表現です。葉鍵における日常とは、与えられたものであり、守るべきものであり、奪われるものであり、辿り着くものでした。それは明らかに積極的な価値を付与された“楽園”といえます。
これは、特に葉鍵に限った話ではありません。そもそもエロゲーにおける“日常”概念は、選択分岐型AVGというスタイルと密接な関係にあります。それは、ごく乱暴にいえば“共通シナリオ”の文学的表現であり、“なにかが起こる前の状態”、非日常と常に対置されるものです。その“日常”に焦点が当てられるとき、それはモラトリアム的心性と結び付き、“失われようとする幸福”の象徴として立ち現れてきます。
それに対し、片岡とも的な“日常”は、ただ日常であり、失われることも奪われることもありません。生まれてから死ぬまで、一生涯すべて、これ日常なのです。宮台真司曰くの“終わりなき日常”という時代性に関連付けて語ることもできましょうが、“私的体験”への執着という観点からすれば、日常がただ日常として終わりなく在り続けるという観念は、自然に納得できるものではないでしょうか。こうした“日常”は、具体的な技法としても発見することができます。
例えば、片岡とも作品には“伏線”がありません。謎を解くことによってキャラクター・プレイヤーの認識が転回することがないのです。“あやめ”にしても、『みずいろ』日和シナリオにおける“ストローの指輪”にしても、『ラムネ』七海シナリオにおける“光るサカナ”にしても、それは作中でリフレインされるごとに意味を積み重ねられてゆくにすぎず、当初の投影された意味合いからぶれることもありません。それは、『AIR』の操り人形というモティーフがもたらす、往人と観鈴の関係に対する認識の劇的な転回とは、好対照をなすものといえましょう。
また、『みずいろ』における、プロローグ(過去編)時点でのシナリオ完全分岐もそうです。『Kanon』に見られる、選択分岐による過去の事実のゆらぎは、『みずいろ』にはありません。積み重ねられた事実・記憶は決して失われることなく、将来に渡って影響を及ぼし続けます。
葉鍵以来、エロゲーのシナリオにおいて重要とされる“トラウマ”に対して、こうした“日常”描写は新たな見解をもたらします。切り離された過去の出来事が現在を規定するのではなく、ただ、過去と現在を一貫した“日常”がつないでいるだけなのです。すなわち、幼少期の体験は“心的外傷”ではなく、そのまま“人格形成”として描かれることとなります。
従って、リフレインされるモティーフは過去から蘇る亡霊ではなく、永遠に現在進行形で語られるものなのです。ただし、積み重ねられる生の実存として――健次と七海の勝敗のように。
葉鍵的でいて、全く正反対でもある。相反する性質を併せ持つこうした“日常”概念は、葉鍵的なるものに対するジンテーゼともいえます。そしてそれは、まさしく“私的体験としての葉鍵”であるゆえに、現れたものではないかと、私には思われるのです。
4.幼なじみへの執着
片岡ともの“幼なじみ”に対する強いこだわりについては、今更指摘するまでもないでしょう。ねこねこソフトの“青系ライン”、すなわち『みずいろ』『ラムネ』そして最新作『そらいろ』の三作品すべてにおいて、片岡ともは幼なじみのメインヒロインを描いています。(もっとも、これらの作品は幼なじみだらけなのですが。)
繰り返され、積み重ねられる日常が、幼なじみという形を取って現れることはごく自然といえます。一方で、これはある種の古典的な幼なじみ像を否定するものでもあります。
エロゲーに限らず、恋愛を扱った作品において、幼なじみという“属性”はしばしば恋愛の妨げになります。互いに異性を意識する年頃になったものの、近すぎる関係ゆえにかえって恋愛には至らず、なにがしかの突発的なイヴェントによって従来の関係が破壊され、ようやく結ばれる――というのが、ラヴストーリーにおける典型的な幼なじみ像でしょう。近年の作品でわかりやすい例を挙げるなら、『ちぇりっしゅBOX』でしょうか。
しかし、片岡とものドグマは“繰り返し”と“積み重ね”です。二人は恋人同士になったとしても幼なじみをやめるわけではなく、その差異はまさしく空や海の色のごとく、グラデーションめいて曖昧です。幼い頃に交わした結婚の約束がそのまま叶えられる日和シナリオなど、ベタすぎてかえって他に類を見ないといえます。
こうした幼なじみの物語は、当然ドラマ性を欠き、退屈の謗りを免れないものとなります。しかし、その欠点を補うのも、また“繰り返し”と“積み重ね”です。モティーフのリフレインによって、なにごともない日々の出来事が重大な意味性をもって迫ってくる様は、独特の感動をもたらしてくれます。これもまた、長さがもたらす感動――葉鍵がもたらしたもの、それに対するジンテーゼといえましょう。葉鍵的テーゼとしてのそれは、ある意味では、膨大な日常シーンの山が崩壊することで成るものだからです。
片岡ともが、いわゆる“トラウマ”に基づくそれに近い作劇手法を用いながらも、その展開においては極めて特異であることはすでに述べました。それは、主人公とヒロインの関係性の扱いにおいてより顕著になります。
葉鍵後のエロゲーにおける主人公とヒロインの関係は、“呪い”であるといえます。それは逃れ得ぬ宿命であり、悲劇を内包する運命であり、主人公は自らの意志と隔てられたところでヒロインと関わらざるを得ません。物語の実質的な“主人公”はヒロインである、という言説にも頷けるものがありましょう。
そこで、ポスト葉鍵作品の多く――例えば『斬魔大聖デモンベイン』は、呪いを祝福にすり替える“解呪”を行い、ヒロインの物語に関わる主体的な意志を主人公に与えた『Fate』がポスト葉鍵時代を終わらせることになります。また後には、“過去に犯した罪”と主体的に向き合う主人公を描いた『ロストチャイルド』という傑作も生まれるのですが、片岡ともの回答はやはり、そのどれとも異なるものでした。
彼はそもそも、ヒロインとの関係を呪いとはしませんでした。といって、単に祝福と定義したのでもありません。それは自己の拠って立つ根拠であり、あえていうなら“救い”でした。ただしそれは、自らの抱えるなにがしかの問題を解決してくれるからではなく、そこに己の歩んできた生が刻み込まれている、ただそれゆえになのです。
日和と七海、それぞれの理由で主人公との断絶を経験する二人の幼なじみは、その運命に悲劇を内包しつつも、それによって印象づけられてはいません。むしろ、悲劇に耐え、立ち続けるための根拠となる“日常”こそが、力強く描かれています。
それは、生の根拠なき全肯定でした。幸福であったからでなく、ただ互いが互いであるゆえに、健二は日和の、七海は健次の帰りを待つ。つまり、それは愛でした。恋ではなく、最初から愛であるゆえに――彼らは従来の関係性の断絶を必要とはしなかったのです。
これは、葉鍵がもたらした“毒”に対する、明確な回答といえます。それは解毒ではなく無毒化――究極的なデトックスです。
5.旅と病院
片岡とも作品において、しばしば現れるモティーフが“旅”、そして“病院”です。これは、彼の私的体験を根拠としたものでしょう。どうやらツーリング趣味があるようですし、詳説は避けますが、『ラムネ』スタッフコメントでは、彼の“病院体験”について語られています。
従って、これらのモティーフは、次第に商業的活動から離れたところで描かれるようになっていきました。無料おかえしCDから始まった120円シリーズ第2編『120円の冬』では全編が“旅”となり、そしてフリーソフトとして提供された『narcissu』は、まさしく“旅”と“病院”にまつわる物語となっています。
旅は慣れ親しんだ日常を離れる行為であり、病院は死に限りなく近い場所です。つまり、これらのモティーフは“日常”と対極に存在するものといえます。では、そこには日常は存在しないのか――否、そうした一見非日常的なシチュエーションにこそ、繰り返し積み重ねられる日常性を見いだすことが、片岡ともの真骨頂なのです。
通過儀礼”という言葉があります。“旅”やある種の“臨死体験”(バンジージャンプがそれです)などは、己の人生を区切り、大人としての新たな人生を踏み出す儀式として、各地の風習に残されています。また、非日常的体験を“通過儀礼”として描くジュヴナイル・ロマンの例も、名作『スタンド・バイ・ミー』を初めとして、枚挙に暇がありません。
線路の最果てを目にする『120円の冬』、異郷の地で死にゆく者の義務を継承する『narcissu』は、まさしくそうした“通過儀礼”的な物語です。
にもかかわらず、これらの作品があくまでも“日常”を描いているといい得るのはなぜなのか。シナリオ分岐が存在しないため、システム的な日常/非日常の分離がありえないという理由は指摘できます。二日以上の繰り返しはすでに日常であり、その日常が“通過儀礼”の前にも後にも存在することはもちろんです。しかしなにより、“非日常”から徹底してファンタジー――特別な出来事を排除する、片岡ともの姿勢があります。
『120円の冬』において小雪が目にする“星”は、どこにでもある電飾です。『narcissu』で旅の果てに辿り着く淡路島は、人生観を変えるような美景ではありません。そして彼らは、試練と呼ぶにはあまりにみみっちい、無賃乗車や窃盗に手を染めます。
旅で出会えるものは、旅に出なくても見つけられるものでしかなく、死に接して感じられるものは、それまでの人生で身の回りにあったものにすぎません。それはむしろ、なにかを――免許証を必要とする未来や、コンタクトレンズを――落としてしまったために、たまさか目に入る、それだけのものなのです。
しかしそれは、彼らの体験が無価値であるということにはなりません。非日常は日常であるゆえに、日常と同じように尊いのです。それは、今そこにある生の実存を“確認”する行為といえます。そして、その“普段と異なる日常”にのみ存在するヒロインとの関係のために、それは一編の物語たりうるのです。
それはつまり、認識の変容を描いた物語といえます。その意味で、『俺たちに翼はない』との比較は可能でしょう。ただし片岡ともにおいては、過去の“日常”は死なず、変容を飲み込んで在り続けることに留意しなければなりません。世界は薔薇色ではない――それを肯定できることが尊いのです。
6.私が片岡ともに見いだしたもの
エロゲーマーという言葉は、現在ほぼ死語になったといえるでしょう。
それは、葉鍵とともにもたらされた在り方でした。現代思想エロゲーを論じ、プレイヤーは“エロゲーをプレイする私”という実存を獲得しました。それは、web上においては、エロゲーレビューサイトの隆盛と軌を一にするものといえましょう。
安易な言い方をすれば、エロゲーが文学性を獲得したということになります。それは、エロゲーの在り方が、プレイヤーの在り方をも規定することを意味しています。
そうした状況を端的に表していたのが、“休日シリーズ”でしょう。これは、エロゲーヒロインのPOPや抱き枕を抱えて旅に出、“記念写真”とともにその情景を綴ったコンテンツ群です。
CLANNAD』の登場を待つまでもなく、エロゲーは人生だったのです。私にとってもそうでした。大げさに聞こえるかもしれませんが、私の人生は、エロゲーをプレイするためのものに変わってしまったのです。エロゲーは、私たちの実存と、わかちがたく結びついたものでした。
しかしそれは、エロゲーのストーリーが、ではありません。すくなくとも私にとっては、“エロゲーが”だったのです。映画を人生の友とする人が、映画館で映画を観ることにこだわるように、私は――私たちは、エロゲーという私的体験を人生の伴侶としたのです。
しかし、ポスト葉鍵時代の作品群は、読み物としての強度を高めることに狂奔してゆきました。エロゲーは、そのストーリーが優れているゆえに“文学”たりえたのではないのです。ソフトを買い、マウスをクリックし、選択肢を選び、ヒロインと結ばれる、その一連の体験が“人生”だったのです。
私が片岡ともを信仰したのは、そうした“人生の伴侶”たるの作品を提供してくれたためでした。“ふつうのギャルゲーを目指して…”――片岡とも作品は、体験としてまさにエロゲー的であり、そうした私の生を肯定するものだったのです。
私にとってのエロゲーとは、キャラクターとともに人生をまっとうすることでした。そのためには、彼らの生が幸福であることも、劇的であることも必要なく、ただ実存だけが重要だったのです。実存の肯定だけが救いだったのです。ゆえに、『120円の冬』は、私にとっては確かにエロゲーであり、その金字塔ともなりました。
――私的体験としての片岡ともについて書いてきた以上、私と片岡ともの別れがいかなるものであったのかを語ることが、本稿の終わりにふさわしいでしょう。
『ラムネ』をプレイして、片岡ともが描くものが、エロゲーという体験から、彼自身の、誰とも共有できない私的体験に移りつつあることに、私は気付きました。共有体験とは結局のところ幻想にすぎないとすれば、それは単なる幻想の終わりであったでしょう。そして、“映画的”を標榜する『朱 -Aka-』の出来に幻滅し、まさしく“映画的”な『スカーレット』の発表を見たとき、私は、エロゲーが私のリアルでなくなったことを、認識したのです。
これが、私が体験した、片岡ともという時代です。それは“通過儀礼”のように、ある時期を境に終わりを告げました。しかし、それは私の中から片岡ともが消えることを意味しません。私の日常は、彼という存在を織り込んだまま、繰り返され、積み重ねられ、今なおリフレインし続けているのです。

『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人30説+』および『恋愛ゲームシナリオライタ論集 +10人×10説』寄稿原稿公開について

サークル「theoria」より発行の上記同人誌について、主催のthen-d氏より、完売を受けてのweb公開の要望を受けた。
ので公開します。
『恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人×30説+』掲載原稿リンク集(http://d.hatena.ne.jp/then-d/20120618/1340112564
『恋愛ゲームシナリオライタ論集2 +10人×10説』掲載原稿リンク集(http://d.hatena.ne.jp/then-d/20120619/1340129355

『花咲くいろは』第1話にまつわる公開質問状

id:matunamiにすすめられて、『花咲くいろは』第1話を観た。
本作の出来は、非常に良いといえる。作画・演出・脚本・企画の全てを含めて、すぐれてハイエンドな作品である。
ただし、現時点で、批評的見地からは疑問なしとしない。
ここでは、肯定派であるだろう松波さんを問答相手と仮定し、公開質問状を作成することで、私の抱いている疑問点を明らかにしたい。
公開時点では、私は第2話を視聴しているが、本稿は第1話のみに基づいて執筆されている。詳しくは、本日22時からの「もりやんと松波総一郎のWanna'be Cute!」で。
って、あと1時間ちょいだけど。

「本作は、緒花の失われた『人生』を回復する物語であるか?」

冒頭、家庭環境の描写が非常に印象的である。
緒花の一風変わった人物像は、このような家庭環境から生まれていると想像される。緒花は、肯定的な意味で、皐月を「見習って」もいる。しかし一方で、あまりに強大な「反面教師」の存在が緒花を束縛していること、皐月が緒花の日常と将来設計を破壊して恥じない、親として問題のある人物であることも間違いない。
常識的に見れば、緒花は不幸である。ここで想起されるのが『ハヤテのごとく!』である。『ハヤテ』は、明らかに、主人公・ハヤテが、両親に奪われた「人生」を、ナギの元で回復する物語だといえる。では、本作もまた、そのような物語として結実するのであろうか。

「民子というキャラクターを、いかに評価するか?」

本作のキャラクターは、個性的でありながら、その表現において一定の抑制を保っており、「アニメ的な」現実からの遊離を防いでいると考えられる
その中で、主人公であり、喜翠荘の「特異点」である緒花以上に戯画化された人物が、民子である。
「死ね!」という口癖もさることながら、板場の人間が、喜翠荘の庭先で、個人的に(?)、ノビルを育てているあたりなど、現時点での描写具合からは、ファンタジーとしか言いようがない。また、板前仕事に対する異常な入れ込みようは、何らか、トラウマの存在を想起させる。
これは、作品の「基準」を混乱させるように思われる。また、民子が象徴するテーマを、作品の軸として打ち出す意図を見出すことも、不可能ではない。というのも、民子が住み込みで働いていること、前述の板前仕事へのこだわりからは、彼女が家庭環境に問題を抱えていそうなことが透けて見えるからである。
民子は明らかに、緒花の「百合パートナー」として設定されている。物語が「緒花と民子の友情物語」として展開することには、どういった蓋然性があるだろうか。

「スイの緒花への叱責を、どのように評価するか?」

「リアルな」倫理観で判断するなら、スイの行動は、職業倫理の現れとして、肯定的な評価を与えることが可能である。
民子を叱責したことについても、緒花への指導効果を充分発揮しており、また民子の生活習慣の乱れが看過しがたいことも事実であることから、「旅館」という環境の特異性を根拠としなくとも、「従業員への指導」という観点からは肯定できる。
一方で、緒花が行動を起こすまで、民子の生活習慣の乱れが放置されていた点、緒花への業務指導が明らかに不十分である点などは、最終的にスイに責任を帰すべき事項であり、理不尽かつ無責任であるともいえる。具体的には、緒花への指導徹底を、改めて菜子に命じることが必要ではないだろうか。菜子は、半ば緒花への指導を放棄しているかにも見えるが、だとすれば責を問われて然るべきである。
なおかつ、緒花が保護者を失った未成年であることを考えれば、スイの態度が冷淡であることは否定できない。
とはいえ、かような一般的倫理判断において、スイの言動が必ずしも正当でないことは、ただちに作品評価上の問題とはならない。より重要なのは、スイが提示したような「旅館従業員としての倫理観」が、本作の物語上、どのような価値を持つのか、ということである。これはすなわち、本作を「緒花が、立派な旅館従業員に成長する物語」として解釈するのか否か、という論点に繋がる。
しかし、この論点は自明であるように思われる。緒花の「旅館従業員としての成長」は、本作の複数設定されたテーマのひとつにすぎない。なぜなら、緒花を取り巻く主要人物(皐月、孝一、民子、スイ)は皆、喜翠荘を経由しない関係性を、緒花に対して持っているからである。
かような視点を持つならば、スイの叱責(描写)への評価は、単に職業倫理的観点のみで語り得ないことは、明らかであるように思われるが、いかがか。

「本作の、『脱臼気味』の脚本をいかに評価するか?」

第1話の脚本は、複数のテーマに対し、提示の段階に留まらず、一定の「物語的問いかけ」を行っている。
以下、括弧内は緒花以外に当該テーマに関連して登場する人物である。

テーマ1
家庭環境(皐月)
テーマ2
恋愛(孝一)
テーマ3
新環境への適応(民子)
テーマ4
職業倫理(スイ)

本作においては、これら複数のテーマが、時系列的にはほぼ同時並行に進行している。一応はテーマ4が軸であるように思われるが、必ずしもその他のテーマが統合的に描かれている、ないし、そのような見通しが立つ状態にないと思われる。
true tears』と比較すれば、本作の「脱臼」ぶりは明白となる。『true tears』においては、乃絵が軸となるヒロインであること、眞一郎を巡る恋の鞘当てと、そこにオーバーラップして眞一郎の将来設計が描かれることが、第1話の時点で見て取ることができた。比べると、本作の視界は遙かに混沌としている。
本作が『true tears』のようなラヴストーリーではない以上、その物語性は、緒花の「一代記」的性格を強くするのだが、この緒花というキャラクターの語りがまた、混沌として、雲を掴むような有様である。これが、キャラクターとして魅力的であることは認めた上で、作品の構成上、ただちに問題なしとはできない。
付け加えるなら、本作に見られる、複数の倫理的問題意識は、いずれも価値中立的であり、いわゆる勧善懲悪的な、明快な倫理観を読みとることはできない。
この事実を、どのように評価するか。主人公を少女に設定した意味、民子とスイの作品構造上の関係はいかなるものか。

「緒花ちゃんにどういうスケベなことがしたいですか!?」

ええっと、もとい。フェラコラの素材めいたサービスカットをはじめ、尻もみもみや、OPでの下半身周りのだらしなさなど、緒花のセックスアピールはかなり強いものがある。
先述の通り、本作の読み筋はほぼ、「松前緒花一代記」に限定されると考えられる。ただし、それが「素人中居奮闘記」なのか、「現代版おしん」なのか、「だらしねえ下半身遍歴」なのか、判然としないし、どうとでも解釈できる。
つまるところ、最も素直に解釈すれば、「緒花ちゃんの可愛いところ見てみたい!」な作品であるとするのが、妥当ではないか。それは、なんというか、才能の不法投棄ではないのか。
つまり、緒花ちゃんにどういうスケベなことをしたいのかは、本作の読解上、最重要なポイントともいえるのではないか。つまり、みんな頑張って薄い本とか出してってこった。

大高忍『マギ』第74夜「崇高な何か」が傑作すぎる件:イノセンスと代償行為

今週の『マギ』があまりにも素晴らしかったので布教エントリをしたためんとする。単行本派は回れ右推奨。
さて、アリババが「王」になったりアラジンが覚醒したりマギバトルが始まったりカシムが異形化したりとこのところ急展開だった本作。無駄に上の方にネタバレラッシュ。終わっちゃうのかしらん、という雰囲気を漂わせつつシリーズ中でも白眉のエピソードを提示してきております。
そもそも、理由あって貧民街に生きる妾腹の王子・アリババが、人生の埋め合わせを求めるかのように、財宝眠る迷宮攻略に乗り出すのが本作のスタート地点であります。欠けたる者であるがゆえに野心を抱き、より大きな「何か」を得ようと奮闘する――本作は、「代償行為」をひとつの基盤とする、そう申し上げてよろしいでしょう。
しかしアリババは、命賭けで得た山なす財宝を、人々に分け与えて失ってしまいます。かれの真の願いは、「不公平を糺すこと」であり、財宝はその代償にすぎない。それを、アリババはアラジン(とモルジアナ)との出会いを通じて悟ったのです。
「不公平を糺す」というアリババの願いは、自らの生い立ちに強烈にモティベートされています。満ち足り、飾り立てられた王宮と、打ち捨てられ、奪い尽くされた貧民街の両方を知るアリババですが、その原風景は、かれの前半生における「はじまりとおわり」である貧民街にあります。ゆえに押しつけられた貧しさを許せず、自らが奪う側であることも許せなかった、ここにかれの「飾らない無垢な想い」=イノセンスがあります。イノセントなままでいられなかった人間が、代償行為を通じて「何か」を得ようとあがき、それを乗り越えてイノセンスを取り戻すことが、『マギ』の大きな物語的運動のひとつといえます。
また、本作は「魔法使い」に導かれた「英雄」が、試練を乗り越え「王」となる、という神話的モティーフを、設定に取り込んでいます。「王となる者」であるアリババは、迷宮攻略という最初の試練を乗り越え、王道の端緒についた後も、いくつもの試練を乗り越えなければなりません。それは、かれが自らのイノセンスに真に向き合ってゆく過程ともいえます。
最初の冒険を終えたアリババは、自らの真の願いを取り戻し、故郷を不公平から救うべく帰還を果たすのですが、ここで再会したかつての親友・カシムが、かれに更なる試練をもたらします。
アリババとともに貧民街に生き、しかしアリババと異なり根っからの貧民であるカシムは、金持ちから財宝を奪う盗賊の頭領に収まっていました。金持ちから奪い、貧民に与える、義賊的行為を完全には否定できないアリババは、カシムの誘いを断れずに盗賊に与してしまいます。しかし、これが明らかな代償行為であることは言うまでもありません。
で、いろいろあってアリババは身分制度の撤廃を宣言し、再び自らのイノセンスを取り戻したかに見えました。しかし、いろんなややこしい奴が登場し、カシムは憎しみに囚われて暴走してしまいます。ここまでが前置き。ここからが今週の話。
カシムは、なぜ「身分制度の撤廃」という答えに満足できなかったのか。それは、アリババへのコンプレックスに由来します。カシムにとって、アリババは心を許し合った親友であり、厳しい環境に立ち向かう相棒であり、傷を舐め合う同類でもあったはずでした。しかし、似たような境遇にあっても、アリババはカシムのようにただ周囲を憎むだけでなく、人を愛し、持てるものを分け与え、前向きに向上を目指す「まっとうな心根」を持ち合わせていました。そして、アリババにそれを与えた「優しい母親」は自分にはおらず、「クソみたいな父親」があったのみ。そして、アリババは王宮に拾われて去ってゆきました。同類であるはずのアリババが、自分とは決定的に「違う」人間であることに、カシムは打ちのめされます。
「自分はアリババにはなれない」という絶望が、カシムを過激な代償行為に走らせていたのです。それは、身分制度がなくなろうが、貧困がなくなろうが、変わることのない事実です。そして、血によって不公平を購おうとしていた自分に対し、誰も殺さず、誰からも奪わず、ただ権利と自由を「分け与えた」アリババの行動に、むしろカシムは、アリババとの「違い」をまざまざと見せ付けられることになり、「アリババそのもの」になりたいという叶えられることのない「願い」によって、いっそう激甚な代償行為に身を任せてしまいます。
ここに、未だアリババが目を背け続けてきたイノセンスがありました。誰もが、互いに違う個人であること。ゆえにわかりあえないこと。カシムとの関係によって烙印されたその真実が、アリババの根本であり、社会的な「不公平を糺す」ことすらも、「互いが異なる個人である」というイノセンスから逃れるための代償行為にすぎなかったということです。*1
アリババは、「互いが異なる個人である」ことを、「悲しい」と表現します。これは、決して変えられない真実であり、解決不可能な問題であり、叶えられることのない「願い」であることを受け入れた、究極的にイノセントな心的態度です。それは「悲しい」、ゆえに、せめてともに幸せに生きるにはどうすればよいのかを、アリババは考えるのです。これは、代償を求めず、イノセンスを出発点に置くがゆえに、根本的な「悲しみ」を癒す唯一の方法であるといえます。
アリババの「悲しみ」によって、カシムもまた自らのイノセンス=「悲しみ」を取り戻します。これは、互いに異なる個人同士に共感をもたらし、代償行為の無限連鎖から解放されるための唯一の手段です。
問題が解決可能である限り、建設的な行動によって個人の不幸を救済することは可能です。シンドバットは、そうした理路によってすべての個人を救済しようとしたといえるでしょう。しかし、問題が解決不可能である場合、そこから逃れようとする運動は代償行為にしかならず、救済から遠ざかるばかりです。叶えられない「願い」を抱き続けるのではなく、ただ「悲しみ」を悲しむことだけが、個人のイノセンスを救済することにつながるのです。
設定面から見ると、王の資格者はマギに「ジンの金属器」を与えられ、「ルフ」より生じる「魔力(マゴイ)」をあやつるわけですが、これを必要としない者こそが真に「王となる者」であるといえそうです。
「ジンの金属器」は「願い」を叶える「アラジンのランプ」を原型としており、人の魂やイノセントな精神と同一視される「ルフ」を、物理的な効力を持つ「魔力(マゴイ)」に変換します。「マギ」のもちいる魔法も同様ですが、これは代償行為の象徴といえます。
代償を求める欠落こそが王の資格者のモティベーションであり、アリババの試練もまた代償行為から出発しています。そして、代償=財宝=「ジンの金属器」=「魔力(マゴイ)」なくして試練を乗り越え、実際的な達成を得ることはできなかったのですが、そこに囚われ続ける限り「悲しみ」と向き合うことはできません。「互いに異なる個人である」というアリババの「悲しみ」は、個人と個人の調停者である(象徴的な)「王」たる、正しい資質といえます。
ちなみに、女性に対しておっぱいしか求めていないアラジンと、強烈な自我(と筋肉)を持つモルジアナに微妙にフラグを立てているアリババの性癖の違いは、こうした精神性を根拠とすると考えられます。「マギ」であるアラジンが見据えているのは「ルフ」の流れであり、世界全体の大きな運動なのですが、「王となる者」であるアリババは個人の「悲しみ」を出発点としており、個の総体として世界を捉えているからです。アリババにとって貧民は「カシムたち」であり、奴隷は「モルジアナたち」ですが、アラジンにとってはみんなまとめて「人間」です。
アリババにとってアラジンは、カシムやモルジアナ以上に「互いに異なる」だけの「個人」にとどまるのか、それとももはや個人としての関係を築き得ない象徴的存在になってしまうのか、二人の友情の行方も注目されます。また、「マギ」として覚醒してしまったアラジンは、ジュダルや悪しき魔力(マゴイ)の使い手たちを、同じにして相違なる「人間」として捉えることができるのか、この点が『マギ』の文学的評価を左右しそうです。

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 1 (少年サンデーコミックス)

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

マギ 2 (少年サンデーコミックス)

マギ 3 (少年サンデーコミックス)

マギ 3 (少年サンデーコミックス)

マギ 4 (少年サンデーコミックス)

マギ 4 (少年サンデーコミックス)

マギ 5 (少年サンデーコミックス)

マギ 5 (少年サンデーコミックス)

マギ 6 (少年サンデーコミックス)

マギ 6 (少年サンデーコミックス)

*1:アラビアンナイト』をモティーフに取っているわりには、恐ろしく近代的な問題意識ですが。

俺が書こうとしているのはジョナサンとDIO子のラヴストーリーであるらしい。

DIOはジョナサンにとっての「運命」であり「試練」である。DIOは常にジョナサンを試す。ジョナサンは、DIOという「運命」がもたらす「試練」を乗り越えることによって成長してゆく。ある意味では、DIOはジョナサンのために存在している。
逆に、ジョナサンもDIOのために存在している。ジョナサンは「人間」DIOの唯一の理解者であり、道を踏み外したDIOを止めるために生きた。しかし、DIOを成長させる人物は、『ジョジョの奇妙な冒険』には存在しない。
DIOがジョナサンを憎みつつも、一面では惹かれていたことは明らかだ。極端なことを言えば、DIOは自分の生まれ持った悪性を剥き出すことによって、「それでも自分の友でいられるか」をジョナサンに問うていたといえる。
確かに、ジョナサンはDIOの友であり続けた。ところが、ジョナサンはDIOに惹かれていない――DIOがそれに値する人物ではないので、「自分の友でいられるか」をDIOに問うことはない。ジョナサンはDIOの執着に付き合ってやってるにすぎない。だから、DIOは成長することができない。
袋小路だし、そもそも「人間」DIOは石仮面を被った時点で死んでいる。吸血鬼DIOは、「人間」DIOの死後に残った残滓にすぎない。だから、DIOの根源である「欠落を埋めたい衝動」が欠けている。
DIO、かわいそす。ジョナサンはリア充すぎる! 爆発しろ!
DIOは救われていない。悪だから救われないのは当然という見方もあるが、事実として救われていない。そして、DIOの人格が全く救われざるべきものとも描かれていない。それは、ツェペリとスピードワゴンの描かれ方に見て取れる。
ジョナサンと(生前の)DIOは、人間の両極端といってよい対照的なキャラクターだが、その中間にはツェペリとスピードワゴンが位置している。ツェペリは、目的のために大切なものを捨てた人物だ。DIOと同じく家族を捨て、最後には命も捨てた。深仙脈疾走と石仮面は、そういう意味で同じものだ。
スピードワゴンは、人生に欠落を抱え、よって悪として生き、そしてジョナサンに出会った人物だ。スピードワゴンは、ジョナサンにはなれないことを受け入れ、ジョナサンを支えることに目的を見出した。そして、他人から奪うことなく、砂漠から石油を掘り出すことで人生の埋め合わせを手に入れた。
ツェペリもスピードワゴンも、ジョースターの血族に救われている。ウィルが捨てた家族(隣人)愛は、シーザーからジョセフへと受け継がれた。スピードワゴンと彼が残した財団は、ジョースターの友として認められ、永くこれを支え続けた。彼らの人生の意味は、ジョースターに救われた。
しかし、DIOの欠落を埋め合わせる衝動や、目的のために全てを捨てた悲劇は、誰にも救われていない。ジョルノはどうなんだって話だが、彼は悪を身に付けたジョースターで、欠落を抱いていないし、目的のために何も捨てなかった。プッチなんか、「人間」DIOの何を知ってるでもない。
ディエゴ・ブランドーは、ジョニィと友情を結ぶことも、欠落を埋め合わせることもなく、惨めに死んでしまった。誰も彼を試さなかったからだ。誰も彼を成長させなかったからだ。「遺体」すら、彼に試練を与えてやりはしなかった。神、ひでー。
DIOが、ジョナサンの「運命の相手」たりうるかを試され、ジョナサンに相応しいことを証明して彼を得る。ぼくが書こうとしているのは、どうやらそんな話です。