「月刊ERO-GAMERS」に対する個人的な所感――なぜ、今、あえてエロゲーレビューサイトなのか

 新企画も動いているので、そろそろ月刊ERO-GAMERSとはなんぞや、という話をしたいと思う。
 主要メンバーのひとりである八柾氏の紹介記事はこちらである。
 この企画はぼくが主催として運営しているが、必ずしも参加者はぼくの思想の賛同者というわけではない。あの作品についてラジオやるから、くらいの認識で参加された方もいらっしゃるはずであるし、そしてそれで全く問題ないとも思っている。
 しかしながら、サイトだのなんだのを用意しているのはぼくであるわけで、そこにどういう意図があるのかを表明しておくのはそれなりに意味があると思う。
 というのは、わりと、自分語りになってしまう話なのだが。
 ぼくのweb上での活動は、エロゲーレビューサイトという形でスタートしている。それ以前にもサイトはやっていったのだが、それは本当に黒歴史だし、レビューサイト時代もやっぱり黒歴史だし、現状も結局黒歴史なのだが、つまるところ、ぼくはレビューサイト文化圏の人間なのだ。
 エロゲーレビューサイト、といわれても、具体的なイメージが沸かないという向きは、ネットで活動するエロゲヲタにも少なくないものと思われる。いまとなっては。
 往時をご存じない方に、ニュアンスを掴んでいただくためにどこをご覧になっていただけばよいか、というとなかなか難しい。有名サイトのほとんどは閉鎖しているから。こんなんがいいだろうか。ちなみにぼくが昔書いたレビュー。恥ずかしすぎるので読み直していないが。
 ぼくのキャリアが始まったのは2002年頃で、それはレビューサイトの歴史上ではすでに爛熟期と呼ばれるくらいの時期であったろうと思う。正直なところ、ぼくは自分がくぐり抜けた時代以外のことはよく調べていない。恐らくこうしたサイトは90年代から存在しただろう。
 それは、エロゲーの歴史上では、葉鍵〜ポスト葉鍵世代に符合するものとして、概ね間違いはないはずである。
 であるからして、当時のレビューサイトには、葉鍵およびそのチルドレンといえるシナリオ重視ゲームを中心的に扱うものが多く存在した。
 一方で、抜きゲーを中心に扱うサイトも、同様に多く存在した。
 シナリオ重視ゲームを中心的に扱う言論の場において、東浩紀と、彼の打ち立てたエロゲー現代思想に接続する論脈が、無視すべからざる大きな存在感を持っていたことは論を待たない。
 しかしながら、ここでいうレビューサイトの言論は、それとは一線を画する文脈を持っていた。それはレビュー――作品の紹介に重きを置いたものであり、多くのサイトは多数の作品をランク付けすることで、おすすめの作品を打ち出す、あるいはひどい作品をボコボコに叩くことをコンテンツの主眼としていた。そして、エロゲーエロゲー以外の文脈上に位置づけ、語ることをしなかった。
 エロゲヲタのエロゲヲタによるエロゲヲタのためのエロゲー批評、これがエロゲーレビューサイトであった……とは、いうことができよう。
 さて、“文化圏”という語を、ぼくは先ほど用いた。
 「エロゲーレビューサイト文化の継承」こそ、ぼくがERO-GAMERSにおいて目的とすることのひとつである。
 “文化”とは、はたしてどういうものか。一般的な語の定義を云々しても仕方ないので、ぼくが“文化”という語に託した意味について、言葉を重ねてみることにする。
 “文化”とは、“粋”である。“粋”とは“美意識”である。
 作品をランク付けするということは、必然的にその基準となる美意識を前提とする。
 美意識は、個人に属する。個の“美意識”が、共有される“粋”となり、それに基づくコミュニケーションが可能になったとき――そこには“文化”がある。そうぼくは考える。
 レビューサイトとは、ある面では“美意識”を競う場であった。ある作品に何点をつけるのか。どういう評価を下すのか。他の作品とどう比較するのか。その点において、あまた存在したレビューサイトは美意識の競争にさらされ、美意識の衝突によって文化の生まれる土壌が形成される。その文化をもって、我々は単に作品を受容するのではなく、そこに“粋”を感じることができた。それが、選ばれた通人に独占されるのではなく、有機的なコミュニティの中でゆるやかに共有されたのだ。
 これはもちろん、当時レビューサイト界隈にいた者の全員に共有される認識ではないだろう。しかし、「今それが可能か」といえば、「それは難しい」という認識については、大きな異論はないものと思う。
 エロゲーレビューサイトは廃れた。
 その最も大きな要因となったのは、言うまでもなくblogの登場であろう。レビューサイト退潮後のエロゲ言論において、その最大の受け皿となったはてなダイアリーのサービス開始が2003年1月16日である。
 blogの登場はレビューサイトにとっての外的要因といえる。では、内的要因によって、レビューサイトが自ずから滅びたわけではないといえば、それも違うだろう。
 まずもって、「ある作品に対する多様なレビュー」が存在するには、「エロゲヲタなら誰でもプレイしている作品」と呼べるものが必要だ。もちろん、そんなものは厳密には存在しない。しかし、実質的にそのような位置に置かれた作品が、かつては確かに存在した。それが『Kanon』であり『AIR』であり、あるいは『はじめてのおるすばん』だったといえる。こうしたポピュラーな作品は、ジャンルの歴史的必然として近年は出にくくなっており、その意味で、現代におけるエロゲーを巡る言論は、葉鍵時代のそれとは違ったものにならざるを得ない。
 さらには、もうひとつの歴史的必然――ボーダーレス化も、レビューサイトにとっては滅びの要因となった。
 隣接ジャンルとの同化によってユーザの裾野を広げようとすること、あるいはもっと大きなパイを持つ隣接ジャンルへの進出は、クリエイターにとって当然の志向といえる。
 そこでは、エロゲーというジャンルの特有性に着目した作品が作られにくくなる。悪意のある言い方をすれば、「内輪に引きこもった」言論が力を失うのは、当然のなりゆきといえた。もはや、エロゲーだけを愉しむ純粋なエロゲヲタは、言論の有力な読者ではない。
 最後のエロゲーポピュラーにしてエロゲーにとっての黒船――『Fate/stay night』に対して有効な言論を行えなかったコミュニティは、どうしようもなく滅びるしかなかったのだ。
 いってみれば、それは単なる世代交代の一側面であり、オールドファンから昔話として語られる「かつてのエロゲー言論の隆盛」こそ、特定の世代における特有の現象であった。それは、一面の真実といえる。
 では、なぜ今、エロゲーレビューサイトなのか。
 それは、時代の潮流によって滅びた「エロゲヲタのエロゲヲタによるエロゲヲタのためのエロゲー批評」こそが、現在空洞化し、もっとも求められる言論であると信ずるからに他ならない。
 時代遅れではある。退化ではある。死人を墓から掘り起こすがごとき愚行ではある。しかしぼくはあえて「勇気をもって退化せよ」と言いたい。エロゲーは今危機に瀕している。それは商業の危機ではない。規制の危機ではない。そうした危機は確かにあるが、それは本質ではない。今迎えているのは、“文化”の危機である。「なぜ、あえてエロゲーなのか」という問いに、答えられぬ危機である。クリエイターも、ユーザーも、「別に、エロゲーじゃなくてもいいんですけどね」という認識の元に、かろうじてその命脈が保たれているのが現状ではないか。
 であれば、例え時代遅れの退化したゾンビであっても、エロゲーの面白さを真摯に見つめ直すところから、新たな“文化”を構築してゆくより他の道はない。
 すなわち、「月刊ERO-GAMERS」とは、極論すれば、ただ、「エロゲーの面白さを語るための場」であり、「エロゲーマーのコミュニティ」そのものなのだ。タイトルを「ERO-GAMERS」としているのには、そういう意図が込められている。
 以上が、ぼくがこの企画を主催するに至った、ごく個人的な動機である。

で?

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