『Fate/stay night』以後のパースペクティヴを検討する

 「月刊ERO-GAMERS」に対するぼくの主要な動機が、コミュニティの形成にあることはすでに述べた。
 一方で、『Fate』以降のエロゲーに対して有効な批評、見通しが得られていないと考えており、それを見いだすことが、ERO-GAMERSを含めた批評活動において、目的のひとつとなっていることも確かだ。
 ちょっとおとなしくしすぎているような気もするし、いい加減持論めいたものも出していくべきに思われた。
 ので、『Fate』以降の時代がどういったものか、個人的な見解を基本的なところから明らかにしてゆきたい。ぼくのERO-GAMERSにおける発言も、こうした認識に基づいている。

主人公の復権

 『Fate』以降のシナリオゲー作品から明確に読みとれるのは、主人公の復権である。この点については、一度記事を書いた。

 ヒロイン分岐構造を前提とするならば、各個別ルートは必然的にそのヒロインに焦点を当てたものとなる。となると、個別ルートの集合によってなる作品全体において、いわゆる「主人公」が主人公であるにもかかわらず物語上重要な意味を持たないという状況が生まれる。これが、いわゆる「透明な主人公」問題である。
 葉鍵作品において、物語が誰のものであったかと言えば、それはヒロインのものであった。物語はヒロインを魅力的に成立させるためにあった。主人公はヒロインの付属物である物語の、さらに部品でしかなかった。主人公の権力は剥奪された。エロゲーとしてはある種の必然の上にあるが、物語作品としては異常といえる。
 ヒロインのキャラクター描写の一環としての――キャラクターに付随する「物語」ではなく、純粋にそれ自体を楽しむための「物語」を重視するならば、そこで重要な役割を果たす者が「主人公」であるべきだ、ということになる。少年漫画などのエンターテインメント作品の創作において、「魅力的な主人公」ということが口を酸っぱくして指導されることは常識の範囲に属するだろう。
 『Fate』以後――厳密にはその傾向は2003年から見られるが――主人公には物語上相応の役割が与えられ、物語の方向性を決定付けるようになる。彼らは、重い運命、独自の行動律を取り戻してゆく。
 では、プレイヤーが感情移入するための男性主人公と、プレイヤーが消費するための多数のヒロインという基本構造に則った上で、どうやって主人公の復権がなされたのか。

衛宮士郎――ヒロインとの対立

 個別ルートにおける一本の物語を成立させうる重い運命を背負ったヒロインに拮抗するため、主人公にも同様の、独自の運命を持たせるということがひとつの回答となった。
 『Fate』においては、各個別ルートの物語をヒロインが、全ルートを通じての物語を主人公・衛宮士郎が、それぞれ背負っているといえる。
 ここで特徴的なのは、主人公とヒロインの物語が、対立的な関係を成す点である。
 士郎の持つ固有の「物語」とは、言うまでもなく「正義の味方になる」ということだ。彼は幼少期のトラウマから「正義の味方」という概念に拘泥しており、そのためにこれまでの人生を送ってきている。しかしながら、彼のその目的意識は、ヒロインの存在と軋轢を起こすのである。
 士郎は、自らの正義感から、少女であるセイバーが傷つき戦うことを許容できない。しかし、セイバーは、自らの目的のため、聖杯を求めて戦う。
 士郎は、「助けを求める者全員を救う」理想に殉じようとする。凛は、それが不幸な結末をもたらすことを知り、それを回避させようとする。
 士郎は、罪なき者を傷つける存在を許容できない。自らの愛する少女・桜がそうした存在となったとき、正義と恋愛の間で苦悩する。
 いずれも、主人公とヒロインの対立的関係の上に成り立っている。これ自体は特殊な書き筋といえるが、主人公とヒロインの物語をいかに協同させるかということは、普遍的な問題意識といってよい。
 この点こそが、主人公が復権した「『Fate』以降」のシナリオゲーにおいては、もっとも重要なテーマだと考える。

実際の運用は?

 以上の観点から「『Fate』以降」の諸作品を検討するならば、必ずしも充分な成果が得られたとはいえない。
 ERO-GAMERSで扱った作品について検討してみよう。

俺たちに翼はない

 主人公の物語をいかに描くかという点についてはさまざまな工夫が見られるものの、それを「複数のヒロインの物語と協同させる」という点では不充分だ。最終的には、ヒロインの背負った運命は、物語上の重みを失っている。

てとてトライオン!

 全体が「獅子ヶ崎学園の物語」ないし「獅子ヶ崎の物語」としてまとめられており、主人公もヒロインも平等に後景化している。個別ルートの意味がほとんど見いだせない。

スマガ

 やはり、個別ルートの集合によってなるメタ構造に焦点が当てられており、個別ルートを持つヒロインは後景化している。

となると、問題設定が間違ってるんじゃない?

 「主人公とヒロインの物語の協同」という設問からズレてんじゃねーのという話になってくるのだが。
 逆に、こうした諸作品は、エロゲーである必要があるのかと問いたい。小説で読んだ方が面白いのじゃないかと。
 メディアの特性に基づいた、より優れた作品へ向かう探求の歴史、そこで浮かび上がってくる問いをおざなりにすべきではない。
 いやまあ、「シナリオゲーはデジタルノベルに向かう」というのはひとつの答えではあるのだが、そこではもちろんエロゲーの魅力のある部分はスポイルされるわけで。
 それはたとえば、「ヒロインを選択する」というメカニズムに宿るものだったりする。
 こうした諸作品においては、「読み物としての面白さ」は担保できる(としておく)が、代償としてヒロインの魅力が失われているように思えてならない。
 それは、一見「エロゲーらしくない」『Fate』においては、しっかり表現されていたものだ。
 ヒロインを軸とした作劇がエロゲーにおいて唯一の正解ではないが、現在流通するフォーマットで有効なことは確かなのだ。ヒロインを主要とする構造に目を向けず、「描写」による話の面白さ、ヒロインの可愛さに依拠する作品には、限界があるのではないか。
 現状は、停滞していると認識する。
 そこからの脱却の可能性、とところを、今後はERO-GAMERSでも言及していきたい。