『11eyes』レビュー書きかけ版3(終)

ディティール戦略におけるストーリーの機能

 さて、ここまで確認してきたように、ディティール戦略を取る『11eyes』においてストーリーの比重は高いものではない。では、それは単に羅列された中二病要素のひとつに留まるのみだろうか。いや、そうではない。ストーリーには特有の機能が持たされている。それが、作品への導入と離脱だ。

導入――平凡な少年の物語

 『11eyes』の主人公・駆は、「平凡な少年」のテンプレートに沿って作られている。万事に積極的でなく、日常を過ぎ去るままにやり過ごし、将来に期待せず生きている。
 もちろん、こうしたキャラクター像は、ヒーローならぬプレイヤーが自らを投影し、中二病と美少女に満ちた世界にダイヴするためにある。
 その機能を強化するため、序盤では駆が前向きさを取り戻す、成長物語的な展開が多く用意されている。香央里や賢久に説教され、また非日常での出会いを通じて人間関係と視野を広げていくという筋である。こうしたストーリーは、作品へのスムーズな導入を促すものだ。
 一方で、それはやはり導入以上の意味を持ち得てはいない。駆は問題にぶつかりながら徐々に成長するというより、バタバタしてるうちにいつの間にか熱血し始めるというほうが実態に近い。駆のトラウマとなっている姉の自殺
についても、明確に乗り越えたらしきシーンはないままに放置される。役割を終えた後は、あまり出しゃばられても困るとでも言わんばかりだ。
 人生と世界に絶望し、日常に飽いた少年――という主人公像は、まさにそのためにのみある。

離脱――平行世界とデミウルゴス

 では、我々は中二病と美少女の世界で永遠に戯れ続けるのか。否、そうはならない。物語は進み、必ず終わりを迎える。その有限性こそ、ディティール戦略におけるストーリーの持つ最大の意味といってもいい。
 そして、『11eyes』のストーリーはただ終わるだけでなく、プレイヤーの「世界」からの離脱を支援すべく、巧妙に組み上げられている。先程の終盤おさらいを思い返してほしい。
 プレイヤーの離脱は二段階で行われる。一段階目は、世界からの大きな異能の消失である。欠片たちの持つ強力な異能は、リーゼロッテの魂、エメラルド・タブレットの欠片によってもたらされている。再構成後の世界ではこれが失われているため、彼らは皆、普通の少年少女に戻っている。美鈴だけは異能を残しているが、それとても陰陽師としては常識的なものにすぎない。
 クライマックスで新世界創造――世界の断絶を作り出すことで「ここからはキャラクター自身に任せましょうや」的な雰囲気を作り出す作例は多いが、本作の場合、物語を駆動していた異能という要素を失わしめることでより効果を高めている。
 二段階目は、プレイヤーキャラクターの遷移である。当初、プレイヤーの代行者、そしてクロスビジョンシステムの「視点人物」は駆として認識される。それが菊理へ、そしてデミウルゴスへと塗り変えられていき、伴って世界の「外」へと居場所を移していくわけだ。
 駆として戦いに身を投じたプレイヤーは、菊理として悲劇に幕を引き、デミウルゴスとして救われた世界を見守ることになる。綺麗に足抜けできるようになっているのだ。

 このように、導入と離脱の機能が担保されることで、我々は安心してディティールに耽溺することができる。

なぜ、ディティール戦略を取るのか

 ここまで、『11eyes』がいかにしてディティール戦略を成立させているか確認してきた。ついで、ディティール戦略自体の是非を問うてみようと思う。エロゲーでディティール戦略を取ることに、どういった必然性・蓋然性があるのだろうか。
 まず、シナリオゲーの歴史上の反動、という言い方ができる。そもそもシナリオゲーは、「ポルノ」「ゲーム」という媒体を用いるにもかかわらず、その定義において必須ではない物語要素を最重要視するという倒錯した状況にあった。これがある種の限界を抱えるのは当然である。
 それでも現実問題として一番本数が出るのはそのテの作品であったので、巨費を投じるプロジェクトにおいては必然的にそこを目指さざるを得ない。その矛盾に、一見電子読み物的な体裁を取りつつも、実際にはストーリーに比重を置かないという戦略が成立し得たとはいえまいか。ヒロインごとに分岐するシナリオ構造を採用するにもかかわらず、明らかに個別ルートに比重が置かれていないことも、同様のやるせない理由による面があるだろう。
 つまるところ、需要とマーケティングのミスマッチ*という状況の産物という解釈だ。なんだか全然わけわかんない状況だが、ムービーゲー死ねとさんざん言われつつグラフィックの悪い作品は売れない、という一時のコンシューマゲームにおける状況と似たようなものだろう、たぶん。なんでゲームってそういうことになっちゃうのかな、てのも興味深い問題ではあるが、本稿では指摘に留める。
 一方で、メディアの形式に基づく適応的進化という見方もできる。エロゲーを含むゲームはマルチメディアアートである。オーディオ・ビジュアル両面を含むのみならず、テキストやゲーム性といった情報を多彩なインターフェイスで提供する。しかも、エロゲーではポルノ要素までも投入されるわけだ。これほど多様な表現力を持った――そして各要素個別の表現力において劣る媒体は他に類を見ない。
 アニメ、漫画、小説、そして非美少女ゲームといった特化した媒体に比べ、エロゲーの個別要素における表現力は明らかに劣る。唯一、2D一枚絵の美しさだけは頂点を極めるが、それとてもCG集という形態で提供可能だ。
 そうした不利に対して、多彩な表現を集中運用し、さらに莫大な物量を注ぎ込むことで大きな感動を与えようとしたのがシナリオゲーの戦略だったわけだが、必然的に制作コストは右肩上がりになり、そしてごく一部の大手ブランドを除いては追随できない領域に辿り着いてしまった。
 その上、メディアとしての洗練の歴史が浅い、というかそもそも思いっ切りキメラ的なスタイルのため、どんなに頑張ってもすげえチープな印象が拭えない。先行き不透明な感じだったわけだ。
 そこで、単一の見せ方に湯水のごとくコストを注ぎ込むのではなく、各要素を個別的に見せるスタイルが発生したと考えられる。実際、かつてのシナリオゲーに比べて、ある意味まとまった印象があるのは確かだ。
 ポルノというもの自体が、即物的な快楽を提供すべきともいえる。かつて、エロゲーにっかつロマンポルノに例えられた。零落したクリエイターが最後に辿り着く、自由な表現を受け入れるメディアとして共通点が見いだされたのだ。
 しかし、ロマンポルノの時代はいつまでも続かなかった。その後に隆盛したのは気楽なエロビデオである。誰も彼も重厚で感動的なストーリーなんか求めちゃいなかったのだ。それは、モノがポルノである以上、決して否定されることではない。重厚で感動的なストーリーがほしければ、小説を読みゃーいい話である。
 そして、この戦略に必要なのはなによりもセンスである。それは「優れた」センスということではなく、決して融合しない各要素をそれでもひとつのパッケージにまとめうる統一的なフィーリングだ。その意味で、全体を「中二病」というセンスでまとめあげた『11eyes』は、どこまでも正しい。

ディティール戦略の未来

 現状、ぼくの知る限り、『11eyes』以上にディティール戦略を完璧にこなした作品はない。しかし、それでもなお本作がナンバーワンの作品ではないということは、指摘されるべきだろう。
 *快楽は忘れられるが、感動は心に残る。歴史上名作として記憶される作品は、やはり感動を与えるものにほかならない。そして、感動とは、なにもストーリーから、「泣き」からだけ生まれるものではないのだ。感動的なギャグ、感動的なゲーム、感動的なエロもまた存在する。感動を生み出すのは、即物的な快楽を突破した表現である。マルチメディアアートがそこに至る道は、やはり各要素の協調的な働きに見出されるだろう。
 ストーリー偏重を捨てたことはおそらく正しい。しかし、ディティール戦略もまた、いずれ限界に行き当たる。そのときに思い出されるのは、かつて目指された、シナリオとCGとBGMとその他全てのものがともに手を取り合ってひとつの感動を生み出すスタイルではないだろうか。
 『11eyes』のなしえたことが、そうした輝かしい未来に繋がることを祈り、本稿を終える。