”文学少女"遠子先輩の説得力のヒミツは?

 この記事を読んで俺は考え込みましたよ。深く考え込んで日常の慌しさの中に沈めたまま一晩放置しましたよ。
 で、思ったんですよ。やっぱ違うんじゃないかって。
 先述の記事の要旨は

  • 遠子先輩は古今の名作を引用することで自らの主張に権威付けをしている

ということです。まあ、皮肉っぽい言い方をすればですが。

権威付けとは、聞き手の常識に訴えかけること

 人間は、自分の常識を裏切るような主張であっても、どこかの偉い先生が言っていたとか、テレビでやってたとかいう権威付けがあるとコロっと信じてしまうことがあります。では、これは常識や思い込みが打ち破られたといえるのか?
 そうではないでしょう。これは、「偉い先生が間違ったことを言うはずがない」「テレビでウソを放送するはずがない」という、より根深い常識・思い込みが優越しているだけです。
 権威付けとは、思い込みをもって思い込みを制する手法であり、いわば逆洗脳であります。これでは、犬神憑きを落とすのに『いぬかみっ!』を代わりに取り憑かせてるようなもんで、憑き物落とし――脱洗脳のワザとしてはいまいちと断じざるを得ません。

憑き物落としとは、□いアタマを○くすること

 脱洗脳の手法は、相手の思い込み・思考停止を解きほぐし、正常な思考力を取り戻させることにあります。
 そのためには、相手が疑うことなく信じている身近な「常識」を打破してやることが、ときに有効です。
 遠子先輩は、広く知られた古今の名作を引くときも、決して相手の思い込みに訴えることがありません。むしろ有名でない部分をこそ語り、行間を読み、表層的なイメージを覆します。これはある種のショック療法と取ることもできるでしょう。「あんなでかいものが飛ぶわけがない」というヘリコプターに対する思い込みを打破するのに、目の前で竹トンボを飛ばしてやったら、相手の思い込みは揺らぎ、話を聞き思考する態度を取り戻す可能性は大きいと思われます。
 遠子先輩は、相手のマイナスの思い込みを解きほぐすために、全く異なる“想像”を提示します。そして、物語の解釈が無限にあるように、遠子先輩の“想像”も決して断定にはならず、常に相手の答えを促がすものです。強固な思い込みを揺るがされた相手は、目を逸らし続けた“真実”を自ら語ってしまうのです。もちろん、遠子先輩の“想像”が“真実”に迫っているからこそ、それが呼び水となるのですが。
 何より重要なことは、遠子先輩が必ず「本を読んでみて!」と言うことです。“文学少女”シリーズにおける古典作品の読解については多く疑問の呈されているところですが、作中のキャラクターが、あるいは読者が、実際に作品を読んでみた感想が遠子先輩のそれと異なっていたところで構わないのです。好き嫌いがあってもいいでしょう。重要なのは知ること、そして考えること。よりよい物語を“想像”すること。
 そういう意味では、遠子先輩の読解はむしろ突拍子もないほうが良い、とすらいえます。必要なのは唯一の“事実”ではなく、それぞれの“真実”なのだから。

結論として

 遠子先輩の「憑き物落とし」の手法は、相手の思い込みと思考停止を打破するもので、「権威付け」とは似て非なる、全く正反対のものであります。正確にいえば、別に説得してるわけじゃないですし。
 我々読者も、勝手な思い込みで作品を判断することのないよう、取り上げられている作品を実際に読んでみるべきですね。俺? 読んだよ、『走れメロス』だけな!