フレッシュプリキュア#23の殴り合いは、プリキュア的ではないし、有効でもない

 あれにどうも「これぞプリキュア」的な感想が多く見られたが、大きな間違いだ。

初代様

 そもそもプリキュアはなぜ格闘をするのか、ということから考えなければならない。
 変身ヒロインものにおける敵とはなんだろうか。彼らは多く、特撮ヒーロー番組における敵勢力のような「世界征服」を志してはいない。いやそうした目的を持つものもあるが、その活動は、表れとして、直接的な破壊活動や支配拡大とならない。彼らは平穏な日常への侵入者であり、それは人の「不安」や「恐怖」の象徴としてある。
 「不安」と戦うために文字通り格闘するのがプリキュアである。ビームやウェーブを決め技として放つ前に、自らの肉体を以て敵と戦うことはなにを表現しているか。それは、表れる「不安」がごく身近で卑近なそれであることを示している。
 『ふたりはプリキュア』のストーリーで描かれる「不安」とは、テストの点数であり、部活の困難であり、友人との関係であり、発展しない片思いであり、その他のきわめて日常的な悩みごとである。それは少女の手に触れる。ゆえにその表彰である怪物とも、プリキュアは素手で戦う。
 これがプリキュアが格闘するもっとも基本的な意味合いだが、相手が完全な「悪」である場合の話であって、今回のフレッシュには当てはまらない。

SS

 では、悪に与する「友達」と格闘した『ふたりはプリキュア SplashStar』では、格闘はどういった意味を持っていたか。
 もちろん、互いを傷つけあうという悲劇的な状況の、端的な表現としてである。満・薫は、初めての激突までダークフォールの戦士としての姿を見せなかった。咲・舞の彼女たちへの認識は、全面的にふつうの少女としてのそれである。ゆえに、ふつうの友達としてしか認識していなかった相手と突然戦わねばならないショック、豹変した友達に戸惑う間もなく叩きつけられる痛みを表現している。
 それゆえ、ここでのプリキュアにとって、相手を殴ってどうにかするという選択肢は考慮の外にある。彼女たちはただかわし、受け、守りつつ相手に呼びかけるしかできなかった。それは事前のストーリー展開とも、ビジュアル表現とも一致するものだ。初代におけるキリヤとの戦いも基本路線は同様である。
 しかし、東せつなはすでにイースとしての姿をさらし、せつなとして以上にプリキュアと関わっている。ラブのせつな=イースへの認識は単純に「ふつうの友達」と呼べるものではなくなっているはずだし、そうでなければならない。そこでは、ストレートに「友達と傷つけあわなければならない痛み」というところに、シーンの意味がつながってこない。
 なにより、映像が全然痛そうではない。互いの繰り出す拳が全く有効打とならずにぶつかり合い、激しい力と力のぶつかり合いばかりが描かれて互いの体には届いていない。そして、「心を鬼にして」イースに立ち向かったラブが、果たしてイースになにを伝えようとしたのか、ストーリーの流れがまったく途切れている。

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 『映画Yes!プリキュア5 鏡の国のミラクル大冒険!』で描かれるキュアドリームとダークドリームの戦いは、一見今回のキュアピーチVSイースにかなり近い。
 しかしながら、ここではプリキュアが相手に伝えるメッセージの有無という、大きな違いがある。キュアドリームはダークドリームの知らない「友情」や「希望」を拳に込めて訴え、そしてそれが力を生み出すことを身を以て示した。ここでは互角以下の戦いを覆して勝利することが、言葉に説得力を与えている。拳が相手にそれを持たないことをわからせ、言葉がそれを持てることを信じさせる。
 これがいわゆる少年漫画的「拳で語り合う」であって、そこでは互いが「理念」と「力」を備えていることが必要となる。ピーチとイースには、相手に訴える理念も、相手を納得させる力も、どちらもない。イースの弱さすら明らかにならない。戦いがグダグダの引き分けに終わるのは非常に具合が悪い。

つまり?

 過去プリキュアシリーズで描かれてきた格闘と、キュアピーチイースの殴り合いは、全く似ていない。

フラットに評価してみようか

 してみれば、この戦いが持ち得る意味は、「感情を爆発させる」ということに絞られる。これがプリキュア的ではない、ということをいったん措いて評価してみれば、そこまでして伝えたかった「感情」とはなんなのか、ということが問題となってくる。
 イースはどうか。彼女は「うらやましかった」という。なぜ「うらやましかった」ことを、殴りあわなければ表現できなかったのか。それはイースがラビリンスに縛られているからだ。この点を、イースの置かれた状況への悲しみ、ラビリンスへの怒りに結びつけない作劇は、効果的ではない。
 また、イースはなにが「うらやましかった」のか。それはラブが常に笑っていたこととされる。なぜイースは笑えなかったのか。それはイースが常に孤独だったからとされる。ウエスターさんいるじゃん、というのは措いておいて、ではなぜイースは友達をほしがらないのか。なぜ自分とラブの違いに目を向けないのか。なぜ美希・祈里になんの感情も向けないのか。なぜプリキュアになれるかを悩んで、ラブの友達になれるかどうかを悩まないのか。
 ピーチに至っては押し込めていた感情自体なにもない。ピーチはあくまでも「東せつな」に語りかけようとするが、そのこととイースに拳をぶつけることが噛み合っていない。そもそも「せつな」に対してなら、ラブはなんの屈託もなく気持ちを伝え続けている。目の前の少女を「せつな」と「イース」に分裂せしめていたなにものかへの意識が全くない以上、「せつな」に対して今更伝えるべきメッセージもない。本来なら「ラビリンスにいなくてもいい」ということを伝えなければならないのに。
 つまり、プリキュア的でないことを差し引いても、有効なシーンではない。話でも演出でも泣くところがない。

なのは

 と比べても、「戦いを通じて理解しあう」「ブッ倒して言うこと聞かせる」という筋がない分イミフ度が高い。
 唯一可能な肯定的評価は、百合百合なまぐわいとしてだろう。

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