『11eyes』レビュー書きかけ版2

11eyes』におけるディティール戦略

 先程は「ディティール戦略」と簡単にまとめてしまったが、それだけじゃあんまり適当なので、『11eyes』におけるその表れを確認してみよう。

中二病ネタ

 『11eyes』に対する形容として、しばしば「中二病」が用いられる。ここで言う「中二病」は、明らかに「ありがちなネタ」という意味合いを含んでいよう。
 この作品に含まれるパロディ的なネタの量は膨大であり、それこそ病的といえるほどだ。まずは、ラジオ放送前に作成したまとめ記事を示す。

 羅列しただけで詳細な説明はしていないが、いくらかはラジオで触れているのでご参照いただきたい。
 この中にはパクリというには牽強付会なものもあるし、オタク作品ではなくその原典を直接当たっているだろうものも存在する。しかしそれが「ありがち」なことは変わりないし、いくらなんでも「禁書目録省」を偶然と言い張るのは無理がある。少なくともオリジナリティを出そうとしたならば、ググるくらいはしてしかるべきだろう。
 結果として、『11eyes』は非常にパロディめいた印象の作品になっている。ラストバトルなんかほとんどギャグだ。どこを切っても見たことあるネタでは、物語をシリアスに受け取ることなどできようはずもない。
 後述するが、物語のメタフィクション的構造がまた見事な中二病マインドに満ちており、ベタにみてもメタに見ても、真剣に物語を楽しませようとしているには、到底思われないのだ。
 というと批判に聞こえるだろうし、実際半分はそうなのだが、ぼくはこの中二病の嵐からそれほど悪い印象はうけなかった。それは作品全体がディティール戦略の元に構築されているからだ。「設定はストーリーの道具である」という固定観念さえ捨て去ってしまえば、このパクリの山は宝の山に等しい。ありがちということは、みんな好きということだからだ。

クロスビジョンシステム

 『11eyes』のディティール戦略、逆に言えば「ストーリーの相対化」を支えるのがクロスビジョンシステムだ。これにより、主人公・駆視点で語られるメインストーリーの進行に従って他視点、他時間のシーンが解放され、自由に閲覧できるようになる。
 このシステムは設定上のトリックで肝になっているのだが、もうひとつ、シナリオを文節化・操作の対象化し、よってその絶対性を薄れさせていることも無視できない。
 ひと綴りのストーリーとして書かれたテキストに比べ、文節化されたテキストがストーリーとしての重みを弱めること――ゲームシナリオライターの文化的地位が小説家ほどに高くない所以でもある――は、経験的に了解されるだろう。単に過去編として提示されるエピソードより、ゲームシステム上の操作対象として提示されるもののほうが、その持ちうる「重力」は必然的に小さくなる。
 言い換えれば、これはゲームの本性への小さな回帰なのだ。そして、シナリオゲーにおいて、そのゲーム的要素を前面に押し出すこと自体、ディティール戦略に寄与するものといえる。それが単に「シナリオを読むため」の機能であっても――だからこそ。ディティール戦略においては、なにものも、他の要素を従属させるほどに、絶対的重要性を持ってはならないからだ。

メタフィクション

 そして、『11eyes』の物語としての「真剣味」を決定的に崩壊させるのが終盤のメタフィクション的展開だ。本作におけるメタフィクションは他のメタゲーほど理解の難しいものではないが、せっかくなのでおさらいしておこう。
 そもそも『11eyes』の世界は、魔女リーゼロッテの魂の*欠片を宿した6人の少年少女が属する、6つの平行世界が重なりあった結界である。それゆえ彼らは、リーゼロッテを滅ぼした後に別れる運命にある。
 これを憂いた菊理は、他の欠片たちと駆を殺害し、取り込んだ上で新たに世界を創造することによって、皆が共に過ごせる未来を得んとした。その代償として、神に等しい力を得た菊理は、自らの強すぎる影響力ゆえ、世界から去ることを決意する。クロスビジョンシステムは、実はこの時点での菊理の視点*である。
 ここで、菊理の力の象徴であるデミウルゴスは、劫の眼*に宿る魂たちと合一したことで人格を得、神の役割を肩代わりし、菊理を世界に戻す。これにてハッピーエンドとなる。
 こうしてみると、途中までは、他のメタゲーでもしばしば見られる、「世界そのものを救おうとする者は、救った世界に生きられない」という認識を辿っていることがわかる。それは、「神」の権能を持つ者は、人としての幸せを求めてはならないという、物語的倫理観の表れといえる。
 しかし本作はそこに留まらず、「無意識」にして「集合意識」――「プレイヤー」の象徴であるデミウルゴスに「神」を肩代わりさせてしまう。
 それしかない。確かに菊理を救う方法はそれしかないのだが、明らかにやりすぎている。それをやらないのが物語の節度であって、ここまでナンデモアリだと「泣ける」ストーリーではなくなってしまう。文学的な余韻など得られようはずもない。
 しかし、そこまでやりすぎてしまうがゆえに、本作のメタフィクション的な仕掛けは非常に高い完成度を持っている。ストーリーを考えず、単体として評価するならば、この奇想とトリックの妙は確かに面白いのだ。

ストーリーの後退と各要素の独立

 このように、『11eyes』においては、全体がストーリーの特権的地位を剥奪するよう構成されている。同時に、作品を構成する各要素が、独立して――連動してひとつの「重要な」構造を生み出すことなく――それぞれにミクロな快楽を生み出している。
 まとめれば、「『11eyes』は中二病」ということになってしまうわけだ。個別の中二病的要素の単なる羅列、それこそが本質なのだから。