男の娘作品に欠けている、ジェンダーをめぐる軋轢

「なぜ、女子というだけで脚を見せることを強要されなければならないのか、納得できないから」だった。
akira's room: ミニスカ論争から、ちょっと外れるけど

前にもpostしたような気がするけど、男の娘が出てくる作品で、女装によって生じるはずの周囲との軋轢が、全くスルーされてしまうことが、どうしても納得できないんだよね。別に、鬱展開が読みたいわけじゃないんだけど。
女装しててもなんの軋轢も発生しないっていうのは、それはもはやちんちんついてるだけの女の子じゃん、という気持ちがある。いや、まあ、そういうことなんだけども
男の娘を設定する積極的動機はいくつか想定できる。「セックスのみ/ジェンダーのみの同性愛を描く」「性自認を巡る問題を描く」「性倒錯を描く(十把一絡げだけど)」「シチュエーションコメディを描く」などなど
で、「セックスのみ/ジェンダーのみの同性愛を描く」場合を除けば、というかこれも「性倒錯を描く」の中に入りそうな気がするけど、ともあれ男性から女性への飛躍、というのが想定されるべき。そこでは社会的/自己認識的/時間的な「基準点」としての「男性」が必要。
例えば、「ボク男の子なのに、女の子の格好して気持ちよくなっちゃってるよぅ!」という性倒錯を描くには、かれの自己認識において、自己が男性であるという基準がなければならない。
それは肉体によるものであったり、経験によるものであったりするが、なんにせよ、男の娘を魅力的に描くためには、基準としての「男性」が必要である、と。
そして、基準としての「男性」から「女性」への飛躍が起こるとすれば、当然の結果として――あるいはそれを確認するために――どこかで軋轢が起こるはずだ。ほとんどの場合、という但し書きはつくが。
実は、女装少年が当然のように受け入れられてるこの世界観テラカオス、という書き筋はあるのだが、これはルール破りだから意味があるのであって、ルール破りが常態化すればさしたる作劇上の効果を発揮し得ない。効果なんか発揮せんでいいです、という考え方もあるが。
ここで、ぼくが拘泥している「準にゃんは元々普通の男の子だったけど、雄真に惚れてしまい、雄真のために女の子になることを決意した」という解釈が出てくるわけです。はぴりらでなんか描かれたかもしれないがそれはプレイしてないので知らない。
準にゃんがなんらの軋轢もなく受け入れられている『はぴねす!』の世界観では、準にゃんに「かつて男性であった時代」を想定しないことには、その魅力を十全に引き出すことができないのではないかと考えるし、読んだ感じ、ぼくにはそうなんじゃないかと思われた。
男の娘を、単にちんちんついてるだけの女の子にしてしまうのは、作劇手法として、非常に勿体ないんじゃないかと思うんだよね。そういうところ、いちいち意味を持たせたほうが面白くなると信仰している。
プラナス・ガール』は、女装に軋轢が発生しない世界観だけど、主人公の「どんなに可愛くてもこいつは男だから欲情しちゃダメだ!」という心理に、ある程度焦点を当てていて、いくらか好感が持てる。だんだんなあなあになっていくけどねそのへん。
プラナス・ガール』の最大の失敗は、絆が「男である」という事実以上に、そのトラブルメーカー的な性格に焦点を当ててしまっていることだと思う。逆に言えば、そのおかげで、男の娘萌えに依存しないコメディとして読めるということでもあるけど、男の娘萌えの人しかどうせ読まないでしょ。

プラナス・ガール 1 (ガンガンコミックスJOKER)

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