『時をかける少女』は誰のためのアニメなんだい

(暫定版?)
最初に断っておくと、ぼくは『時かけ』が好きではない。本稿はその原因を考察するものである。
ちなみに、筒井の原作は嫌いではない。古すぎて今読むにはつらいとは思ったが。
で、まず本編中首を捻ったポイントを挙げていこうと思ったのだが、ほとんど全部になってしまうので絞る。大きいのとしては以下。

  • キレイすぎる情景(主に学校)
  • 「未来で待ってる」
  • 「走って行く」

このあたりのシーンを脳内で転がしてたら、感情移入があまりにしづらいのが原因ではないかと思い至った。以下、詳説。
まず、原作と相違する最大のファクターは真琴が千昭と再会するために自ら未来を目指す点だ。これが1986年とは違う2006年の少女の姿だ、というのはいかにもな俗流解釈なのだが、あえて曲げてもなにも生まれなそうなので、それでいくことにする。
つまり、アニメ『時かけ』は現代性の作品なのだが、そのわりには情景がキレイすぎる。画面から受ける印象は「古き良き時代」のそれだ。
緑豊かでやたら仲良さげなのは田舎の学校だからなんじゃないかのかと。しかし画面の清潔感が強すぎる。これはノスタルジックな効果を狙ったものとしか見えない。今そこにある田舎はこんなにキレイじゃないだろう。
いや、「都会(人)から見た田舎」であれば清潔なのはわかる。相対的にノスタルジーが発生するし、単に実態を知らないからね。しかし真琴らは土着の人間であって田舎への幻想なと持ち合わせていないはずだ。
千昭の視点だというのはなお苦しい。千昭にしてみれば現代的な都市だって遺跡みたいなモンであるはずなので、わざわざ舞台を情緒残る田舎に設定した意味が全くわからない。
「現代」で「田舎」で「豊か」といえば「我々が失ったなにかが残る場所」なわけで、そこで「新時代がもたらしたなにか」を表現しようとした時点でズッコケるのは目に見えているではないか。
なので、真琴の持つ積極性とか前向きさといったものは、現代的なものというより、単に個人的な資質に見える。となると個人同士の比較、和子と真琴の違いというのが重要になってくる。実際そうなっているようだ。
原作を読んでいるかどうかで当然アニメの受け取り方は違うはずだが、その点について踏み込む必要がある。
既読の場合。
和子のキャラクターについて検討してみると、えらい美女であった。また、神秘的であり、容易に内心を伺わせない。
してみると、アニメ『時かけ』が想定する「原作読者」は男性であることがわかる。30代の和子の姿は「かつて恋した、未だ美しい女性」のそれである。女性読者を想定していたら、もうちょっと哀愁が漂うのではなかろうか。
さて、原作読者にとってアニメ『時かけ』は真琴との新たな出会いである。和子との比較によって真琴の個性が引き立つ。
未読の場合。
物語を牽引するのはタイムリープである。なぜタイムリープが可能なのか。タイムリープにより真琴の運命はどういった変転に見舞われるのか。タイムリープができる真琴とはどういった人物なのか。
クライマックス直前の和子の台詞によって、物語は「タイムリープという奇跡すら可能にする少女・真琴」という存在を描く方向に収束する。
で、真琴の「タイムリープ性」=走って跳んで転ぶ、である。親しみやすいキャラクターである、とは言ってよい。ではそこで想定される観客層はどうか。女性が感情移入しやすいように立てられる少女主人公は、だいたい根暗か天然である。この手の体当たり系おバカ少女は男性向け作品に多い。
つまり、いずれにせよ『時かけ』は男性向けである。そして、物語は真琴と千昭のラヴストーリーに落着する。真琴が千昭を意識し始めるにつれてエロくなっていくので、観客も真琴にひかれ始める。となれば、観客と千昭の関係が問題になってくる。
先に結論を言っておくと、千昭の心情描写にかなり問題があった。
さて、原作でも主要登場人物は女1男2であった。男2のうち和子の相手役となる一夫はぽっちゃり系であり、特別不男という描写はなかったが、どっちかといえばイケメンではなかった。
一般的に言って、すごいイケメンが感情移入しやすい、という男はあまりいない。女性にとって真琴があんまり美少女でないほうがいいというのと同じことだ。つまり女性向けの顔面偏差値である。女性から見てものっけから両手に美男子の真琴は感情移入しづらそうな気がするが。
また、千昭がどう見ても真琴を本気でオトそうとしているのが引っかかる。未来に帰らなきゃいけないことをどう考えているのかわからない。友人と一緒に観たのだが、原作未読の友人はなんの伏線も感じ取れず、クライマックスでズッコケていた。ぼくもひょっとしたらこいつ未来人じゃないんじゃ、と思っていたくらいだったので無理もない。
よって、千昭はかなり感情移入しづらく、なにを考えているかわからないので俯瞰的に見ることも難しい。むしろ「いきなりなにをわけのわからないこと言い出すんだコイツ」という真琴に移入しているくらいだ。

まとめると、アニメ『時かけ』は、千昭を通して真琴に恋する映画であるはずだが、いまいち成立していない。こう方向性がバラバラだと、確かに観客が特定の層に偏りにくくはなるだろうが、単純に観ていて気持ちよくない。
「『時かけ』はアニメファン以外にも楽しめるアニメ」という言説がもてはやされたが、こんなカタルシスのない作品を楽しめるのはよっぽどアニメが好きな人だけであろう。