『フレッシュプリキュア!』49話 時代錯誤と責任放棄のディストピア

メビウスの正体がついに明らかになりましたね。管理コンピュータ。道理でプリキュアボス恒例の中盤での遭遇がなかったわけです。そこで提示すべき人格のなにものもなかったのでは仕方ない。
管理国家ラビリンスのボスキャラとしてはこれ以上なく妥当な設定ですが、しかし今時「文明がいきすぎてマシーンが人間を管理するディストピア」はないでしょ。何十年前のSFですか。プリキュアシリーズの慣習は打ち破っていますが、どこがフレッシュですか。
今月8日、TVで『もののけ姫』の放送がありました。1999年の映画です。この作品ですら、文明が救う人々の存在を視野に入れていたというのに、10周年も過ぎてから文明の単純否定って恥ずかしくないんですか。
子供向け作品だからこまけぇこたあいいんだよ、という向きもあるでしょう。よろしい、それはひとまず認めましょう。では、この作品は子供たちにどういった生き方を提示するのですか。
47話までの状況を確認しましょう。全パラレルワールドは、プリキュアたちの世界を含めてすでにラビリンスに支配されています。故郷を空にしてのこのことラビリンスに出向いたことが思いッ切り悔やまれる状況ですが、おいておきましょう。
ラビリンスの人々は、プリキュアに感化され、メビウスの支配に対して反旗を翻します。ラビリンスを除く世界の人々は未だマインドコントロールされたままなので、四ツ葉町の人々からの応援がないのが悲しいですがまあいいでしょう。
そこで、メビウスはかつて人間によって生み出された存在であることを暴露します。それに対するラビリンスの人々の反応は、まだ描かれていません。自らの犯したあやまち、全パラレルワールドに対する責任にどう回答するのでしょうか。見物ですね。
結局のところラビリンスが「どこ」なのかは明示されていませんが、我々の住むこの現実の未来であるとするのが妥当でしょう。傍証として、『Yes!プリキュア5GoGo!』最終話があります。全世界から届く手紙の「差出人」として、顔を描写されない人々が登場します。劇場版のミラクルライト演出からの一連の流れとして、これは「視聴者」であると解釈できます。また、ラビリンスが「現実」でなければ、これを異世界たらしめるなんらかの要素が描かれているべきでしょう。住民が動物だとかね。
四ツ葉町という美しい世界に対比して、現実をディストピアとして描いているとすれば、これはもう悪趣味としか言いようがありませんが、さらにストーリー上も問題が生じます。
最終話、メビウスプリキュアによって倒されることは間違いありません。するとラビリンスの人々はあやまちを自ら正すことができないことになります。いいんでしょうか、迷惑かけたよその人の力で解決しちゃって。倫理的ではありません。
そして、視聴者は、つまり子供たちは、プリキュアの行いから学ぶことが想定されます。しかし、今後災厄を生み出すかもしれぬ我々の世界と、プリキュアの世界は全く繋がりがありません。プリキュアの世界はメビウスを生まないし、プリキュアがどう振る舞おうとラビリンスはメビウスを生んでしまいます。
いずれにせよ、ラビリンスの人々にしても、プリキュアにしても、視聴者の模範たるべき行動を取ることができません。ラビリンスが異世界だとしても同じことです。この手の「人類を支配するマシーン」は、それを生み出した人類の手で倒されるのがお約束です。そうでなければ、教訓話として成立しませんから。
つまり、メビウスを生み出したのがプリキュアの住む世界の人類であるか、プリキュアの住む世界の未来の姿がラビリンスである必要があります。すると仮想世界か歴史改変ネタとなり、とうてい日曜朝に放映できる内容ではなくなりますが、どのみちキッズアニメとしては不適格です。
メビウスの正体が、制作のどの時点で決定されていたのかは知りません。しかし、この最終話直前にきての行き詰まりが、これまでのシリーズ構成によってもたらされたことは確実です。プリキュアとラビリンスの思想的対立軸がはっきりしないために、これほどストーリー進行に影響を与えている。ダンスは何の意味があったのですか。
ぼくは、『フレッシュプリキュア!』に、美を描こうとする意思が欠けていると思います。綺麗事はただ口にするだけでは説得力を発揮しません。24話といい、本作では、重要なエピソードに際して、担当脚本家は最善を尽くしているものの、それまでの蓄積に失敗しているために台無しになっている状況が目に付きます。あっさり復活しすぎて感動もへったくれもないウェスター・サウラーも同様の問題です。作品のポテンシャルを発揮していない。前作のファンとして、残念な限りです。